チベットにおける性行為の広がりと、それに相反する感情にまで前回はたどり着きました。
これはどうも、慧海法師の見立てでは、元々ポン教と言う別の宗教圏であったものが後から仏教国となったために、両教の教えがごっちゃになっており、結果彼らは仏教の法を良しとしながら実際の行いは「昔からそうだから」という風習に従っているのではないだろうか、ということです。
また、このチベット仏教には新教と旧教(サキャ教)があり、私が書いていたようなタントラや死者の書のような内容は旧教にある土俗の風習であり、新教こそが本当の仏教だと法師はみなしています。
しかしこれ、毎度おなじみいつもお世話になっている私の仏教アドバイザー、阿闍梨をうまいこと釣りあげて聴きだしたところ、やはり慧海法師の誤解であろう、ということでした。
本来、行者が体得した智と言う物は他者が簡単に聞き出して良い物ではありません。
そこで私も当然、他の武術家に対してもそうであるように(老師に対してももちろんです)、密教の行者である阿闍梨には簡単に聴きたいことを質問しないように線引きをしているのですが、時々うまいこと形式を踏んでお答えをいただくことがあります。
今回のもそう言った段階を経て見識を分けていただきました。
結果、実態はつかめないのですがとりあえずチベットでは西洋的な婚姻制度がとにかくまだなく、近代資本主義圏とは全く違う性の通念が通っていたということは分かりました。
そのような風土の中で、始終発情してセックスばかりしているという連中が、不潔であるというのは私たち現代日本人には少し不思議に感じるのではないでしょうか。
そこでちょっと私の東洋的な気の観点からの仮説を奉じたいのですが、これ、もしかしたら常在菌の交換をしていたのかもしれない。
人間には互いの体内および表皮上で養っている微生物が個々人ごとに独自にあり、これが体液の交換によって伝播するというのは知られていることです。
虫歯菌などは元々は存在せず、親子間などで口移しをするから新生児に伝染する物だと言います。
これが、益のある方向に働くこともあるのですね。
これを東洋医学では衛気と言い、身体の外面で健康を守っている物だと表現したりするのですが、チベット仏教の文化が仏教の物である以上、同様の見識があっても不思議はありません。
体液交換というのは、口移しだけではなくて性的な交換も含まれます。
こうやって体質の交換が行われ、抗体などは広まってゆくというのですね。
この部分を意識して読むと、慧海法師の経験には面白いことがあります。
ある村での不潔な経験として、とにかく食器を洗わないという物がありました。
他人が使った食器は洗って使うのですが、自分が使った物は何日も洗わない。
そのことを人に言うと「自分の使った物だから汚くはないのだ」と言ったとのことです。
ここに当時のチベット人のパーソナル・スペース感覚のような物があったのではないでしょうか。
性交をする相手とは交換し、そうでない相手とは器を洗って壁を設ける、というようなプライバシーの概念がうかがえます。
このような概念は、私が行っている房中術にも存在しています。
性交を介する気功においては、金津と称して互いの唾液を交換するのです。
これによって、お互いの気の交換が行われて陰陽の補完となるとされています。
これも現代的な分析をすれば、常在菌の交換と言えるでしょう。
この常在菌の話を補強するのが、彼らの食習慣の話題となります。
さらに気色の悪い話となりますので次回に続けますが、これ、ホント読まない方がいいですよ。
つづく