私は平素、中国武術はインドから来た物であり、佛教の行であると言うことを書き続けています。
もちろん、道教の方に伝わった物もありますが、いずれ精神的な思想体系の行であることが本質であると言うことにおいては変わりません。
これらのことは往時の香港功夫映画などを見れば、それらが得てして仏教的な故事であることからも感覚的に理解がしやすいと思うのですが、日本では仏教そのものが独自に変容してしまったため、他の宗教が広まっている国よりもむしろピンとこないところが多いのではないでしょうか。
日本仏教では、中国やチベットの仏教に伝わっていた物の多くが、あまりにも失われているように思います。
ことにヨガや武術に関してはそれが顕著であるように感じています。
元々、仏教には五明と言う言葉があると言います。
すなわち、声明、因明、内明、工巧明、医方明の五つであり、意味はそれぞれ、文法、論理学、教理学、工芸や数学、医学となっているそうです。
実際にはそれらの周辺の学問も手広く含まれており、古代インドのリベラル・アーツだと言った感があります。
古典佛教にはこれらが含まれているため、お寺は政権とは別に独自に土木工事をしたり医学を用いて救世を行うことが出来ました。
少林寺が一種の都市として機能しており、時に政権ににらまれていたなどというのもこのように一つの国として独立するだけの力を持っていたためでしょう。
少林武術も当然、上述の学問体系の中に存在します。
ですので、実用面としての軍事力として武僧(僧兵)たちを軍事力として確保する一面と別に、心身を健康にするための運動であるという面も存在します。
それらの根拠として、東洋医学理論が通底しているため、現代の私たちも又、ただの格闘技として中国武術に取り組んではその本質を理解することはできません。
この辺りがね、本当にこの国では上手く伝わらない。
仏教における欠落が影響しているように思えて仕方がありません。
ただ、格闘技まがいのことをしたり、自分にだけ還元することを求めるだけではこれは小武術でしかない。
世の中のために役立つところに向かったり、あるいは世界を良い方向に向けるベクトルで行われることで、これを大武術と呼ぶことが出来る。
中国武術は元々そのように出来ているはずなのです。