昔、私がまだ町の下層のクズをしていた頃、仲間が「ポリスに切符を切られても逃げ切れるらしい」と言ってきたことがありました。
その時に見せてくれたのが、請求が来ても無視をし続けていれば、強制執行はされないので支払いを回避できる、というサイトでした。
見せてくれた友人は走り屋で、整備士資格を持っていて自分で車やバイクを改造しており、私のバイクの世話をいつもしてくれている男でした。
この時に見たサイトが、例の「ひらがなの名前の人」の作っていた物で、後の「2ちゃんねる」のいわばプロトタイプとなる物だったということを最近知りました。
つまり、彼がやっていることは最初から同じなのですね。
一貫して、常時無責任でその場だけのことをして時効まで逃げ切るというコンセプト通っています。
このことについてコメントを求めた記者が質問をしたところ「時効が来ていないのはどれだ」と言われたそうです。
彼の基準の中では、逃げ切れたか逃げ切れていないのか、ということしかないようなのですね。
このような、上手くやりおおせたかそうではないか、という価値観については私はずっと批判を繰り返してきており、先日も矢沢永吉氏を例に挙げて批判をしました。
世俗的な成功をしたかしていないかを基準とするのは貧しいことだ、と何度も繰り返してきています。
このことは、根本的な近代社会の在り方として、日本ではスタート地点から語られてきています。
福沢諭吉翁は「学問のススメ」の中でこのように語っています。
〝国法の尊きを知らざる者は、ただ政府の役人を恐れ、役人の前をほどよくして、表向きに犯罪の名あらざれば内実の罪を犯すもこれを恥とせず、ただにこれを恥じざるのみならず、巧みに法を破りて罪を遁るる者あればかえってこれをその人の働きとしてよき評判を得ることあり”
これって、丸々あの「ひらがなの名前の人」そのものですよね。
これが書かれたのが明治。
二度の大戦とバブルとその崩壊を経ても、日本人は何も成長をしていなかった。
上の文の続きにはこうあります。
〝はなはだしきは小役人と相談のうえ、この内証事を取り計らい、双方ともに便利を得て罪なき者のごとし。”
いま起きている、彼の公共事業への関与と言うのはこれそのものではないですか。
つづく