老師から、通背弾腿の十路をすべて教えていただきました。
どうも、他の派の弾腿とはだいぶ違うようで、ほとんど独立した一つの拳法のような感があります。
手数もだいぶ多いのは、基本の内から流儀の動きを身に着けるためなのかと思われます。
実際、後半になると手数も多いし動きも複雑だしで、結構大変な感じもするのですが、それがやりがいになるし味道にもなります。
そのようにして十路をやると、初めてこの門のヴァイブスが少し見えてきたように感じました。
これまで私がやってきた物とは全く違う、別のシステムでのやり方と言うのが見え始めてきた。
猛烈な高速での連環は、小手先や動作の省略ではなくてどこから行われているのか、ということがこの弾腿の中にあるように感じました。
武術では、一つの形を現すのに「勢」と「式」という言葉がありますが、この門では「勢」であると老師から教わりました。
経過の中での勢いがあるからだということのようです。
一つ一つの動作をしっかり止めることも、経過段階として通過することも、それぞれに重要な意味があります。
私は停止して勁を出しっぱなしにするタイプの物をこれまではやってきたのですが、この門はまた違った要求があり、決して止まらないことの中に意味があります。
今回、通背の十路弾腿を経て大いに驚いたことに、心意拳と同じ腿法が多用されていることがありました。
捲地風、双ベン(漢字を忘れました)風と言った独特の蹴りが出てきます。
どちらも癖の強い独自の蹴りで、他の武術や格闘技ではあまり見ません。
これをもし、式をもってすればそれは心意になります。
いまやっているのは通背なのでそのやり方では行いません。
あくまで勢でのやり方に専心して体得を求めるというのがいまやっていることです。
また、最後の十路では鷹捉が出てきました。
これは心意の本質を表現しているとも言える動作です。
しかしこれもまた、やり方がだいぶ違うのみならず、形も少し違っています。
通背では特徴的に多用される朴歩にて行いますが、心意では当然、看板歩系である鶏歩で行います。
また、実は同様の動きは蔡李佛では借力として行いますし、フィリピンに伝わっている暗殺術ではジャーキンと言って多用しています。
それぞれに立ち姿勢が違います。
この辺り、ミックスしたり混同させたりしないようにしてこそ、それぞれの門の持ち味が身に付くという物でしょう。
こうして縦断的に南北の沿岸沿いの武術を学ぶことが出来るというのは、非常に恵まれたことであり、私の一大の仕事として大切にしております。
もし、自分の利だけを考えるならば「使えりゃいい」としてこのように分類することはなかったでしょう。
それでは本物をする意味がない。