先日、同級生のアスリートが、下腿の筋肉について教えてくれました。
それは、ある筋肉の一つの頭が、骨格の角度によって使えなかったり使えたりするという話でした。
彼は現代競技の最前線にありながら、身体操法系の研究に参加しており、その成果としてこの用法を得ているということのようでした。
まず最初に結論から言うなら、これは私の学問の範疇からは関係のないことです。
なぜなら、骨格の話であって、生理学的な話ではない。
日本の古武術、特に柔術であるなら骨格の追及をするのですが、中国武術の術と言うのは前から書いているように骨格から離れて体内にピタゴラスイッチ的な回路を使って用いるものであるからです。
「生の力を使うな。勁を使うのだ」というのは中国武術の世界の人間なら聴いたことがある言葉でしょう。
しかしそのように違う世界の要領のお話でありながら、私は潜在的にはこのことを知っていました。
いや、知らないのですが、教えられて行っていました。しかも逆の方向に。
と言うのは、まさに上に書いた「生の力を使うな」の話なのですが、この修正を利用して下腿の力をそのように使わない方法を教わっていたのです。
裏側から同じ仕組みを教えられてきたといえるでしょう。
もっとも卑近なところでいうなら、それは私が数年前に公開した下肢の訓練法動画の中にあります。
そこで私は、自分がいま行っている、夢のスクワットに繋がる研究の下段階として、膝を傷めている人でも可能な段階的なトレーニングを紹介しました。
もっとも初手で紹介しているのは、つま先で立ってはまた戻すという「カーフ・レイズ」というトレーニングです。
これは私は若い頃から好きな物でした。なにせ下半身を鍛えるのが好きだったのです。
この練習法に膝の保護効果があると知ったのは、ポール・ウェイド先生の著書によってです。
下腿の筋肉は膝の骨を起点としているため、この腱を鍛えることで膝を保護することが可能である、ということでした。
言われてみれば当たり前なのですが、それに気づきませんでした。
この、基本のカーフ・レイズの次の段階に設定されているのが、膝を少し曲げる、武術で言う「膝を含む」状態での同様の運動です。
ポイントは、つま先立ちになっても膝を含んだままでいるということです。
これによって、上述の腱が一頭使えなくなります。
そうすると、使える筋肉が減るので、運動自体は同じでも負荷が大きくなる。という寸法です。
この膝を含むということ、実は中国武術では段階的に行われています。
初めの段階では膝を伸ばして使ってまんべんなく下半身を鍛える。
しかし、高級段階になるとこの膝を伸ばしている時の力を放棄して、それまでの練功で作られた武術的ピタゴラスイッチを活用する方向にシフトします。
わかりやすい例で言うにはやはり回族武術が良いでしょう。
初めの弾腿の段階では、下半身の練功を重視し、後ろ脚の膝はまっすぐに伸ばすんだ、と教わります。
それが、次の通背の段階になった辺りからもう後ろ膝は伸ばさなくなってきます。
勁の用法を学ぶからでしょう。
そして最後の心意拳の段階になると、鶏歩という独自の歩形で行うようになります。
これはつまり、後ろ脚の膝を常に曲げて膝裏を含んでいる、という物です。
足の使い方は弾腿の状態とはまったくことなっており、この用勁を体得することが心意の段階となります。
漢化した心意拳である形意拳でも、同様に三体式という立ち方が中心としてあり、同じく後ろ膝を含み続ける要領が大切になってきます。
有名武術団体の大先生曰く「馬歩と弓歩から始まらない物は武術ではない」ですが、そこから始まって高級段階になると両者を融合したまったく別の土台を活用するのです。
これ、同じ構造を内包している蔡李佛でも同じです。
高級段階の套路になると、それまで出てこなかった鶏歩、三体式の立ち方で套路を打つことが求められます。
それまでのように、頑丈な下半身で低く構えると訂正をされます。
「ここではそうじゃないんです」と。
高くても強い威力が出せるように、生の力は使用禁止となってきます。
昔、蔡李佛の大師はその膝裏を含んだ高級段階の立ち方に対して「あれでは力が出ない!」と言って、自分では後ろ脚を伸ばす姿勢で行っていたそうです。
しかしそれは、ここに書いてきたように初歩から高級への転化が行われていない。
そのことを師父に言うと「大師がまだ若かったころのお話」だと言われました。
後に観た大師のお姿では、ちゃんと後ろの膝は含まれていました。
それでより大きな威力を出す勁にシフトされていたのです。
だから私たちはその勁を学ぶことが出来ました。
師父が言われたことには、技と術は違うということです。
生の力と勁とは違う。
中国武術を体得しようと思うならば、日常で特に用途が見つからなくても、術の体得をしなければやりがいがありません。
現代人の常識と離れたところにある物を自分の常識とするという価値観の転換がそこにはあります。
それを求めることが喜びである、と言う人のみが、この道に楽しみを求める人々なのでしょう。
それは現世での適応とはまた違った種類のお話かもしれません。