先日、いつものようにホグワーツの地下駐車場で練功をしていました。
その日は雨が降っていたので、濡れた靴の裏が滑らないように、弾腿の内から安定した架式の物だけを選んで打っていました。
数を限定した分、前日に老師から教わった歩形の要訣を重視して行いました。
定時になり、教室で始業のチャイムを聴いてしばらく、プリントの配布時か何かに席を立って教卓に向かったところ、異常に脚が重い。
あれ? と思ったのですが、数本打っただけの弾腿のためであると感じました。
ちゃんと効いていたのです。
非常にうれしいお話です。
そして、教わったやり方が利くのだとしたら、これ、陰陽思想に乗っ取って逆回りでも出来るのではないかと感じました。
もうちょっと具体的に言うと、小周天の回転方向のお話です。
以前に師父から、武術として必要なことはみんな、小周天までの段階に入っている、と聴いたことがあります。
ですので教えていただいたことがどう小周天の活用で行われているのかが見えれば、それを陽側主体で行うか陰側主体で行うかで二種類を試すことが可能です。
このように、体型的に統一して検討できるところが本物の伝統武術ならではの完成度であると言えましょう。
いつも書いているように、断片を繋ぎ合わせても全体にはならないのです。
初めから全体像が出来ている物ではないと、このようなことは不可能です。
これは、西洋的な思考と東洋的な思考の差であるように思います。
と、いうのは、レヴィ=ストロース的見解で、西洋の考え方は断片的で東洋の考え方は全体的。
ですので東洋医学のことをホリスティック(全体的)医学などというのですが、正直いままでこの考え方は言葉としては知っていても理解がいまいち遠かった。
これが、最近良い例えを耳にしたのでシェアしたいと思います。
西洋的な物の考え方が部分的であり、東洋の考え方は全体的だというのは、石垣について考えると分かるというのです。
キリスト教伝播以降の西洋の城塞と言うのは、石切で作った石材や、レンガなどの人工的な素材で作られていますね。
それに対して、日本の石垣などは天然の大岩をゴロゴロと丸太の上かなんかを引きずって持ってきて組み合わせています。
そうやってそれぞれ同様の機能を持つに至るのですが、これ、どこかの一つのパーツが壊れた時に違いが出ます。
西洋的な物は、そもが画一化された部品で出来ているので、同じ部品をしつらえて交換すればそれで修復が可能です。
しかし日本の石垣では、生の石をはめているのでそれが壊れてしまったら、同じ形の石が無いので修復に困ることになります。
ですので、代わりの細かい石を色々と元の石があったくぼみに詰め合わせて、さらに工夫をして、どうにか全体の釣り合いを取り直させて修復させることになります。
となるとですね、当然、「なんだ、東洋式不便だな。最初から同じ部品を大量生産して交換可能にはめ替えてる西洋式が圧倒的に優れてるな」と思うでしょう。
しかし、これね、石垣や石じゃなくて、人間に置き換えて考えてみてください。
「人は石垣、人は城」という戦国家訓がありますね。まさにあれです。
西洋式の考え方だと、組織の中の人員に問題が生じた時には、全体のためにさっさとそれを外して、別の人と入れ替えれば良いわけですよね。
同じような人間、いくらでもいる訳ですから。
そして、その調達を可能にするために、初めから取り換え可能な同じような程度の人間を大量生産する訳ですよ。
規格からはみ出した部分は切除したり、強度の足りない部分は叩いて強くしたりする訳ですよね。
でもって、過酷な環境にはめ込んで、そこで持たなければさっさと外して他のと取り換える。
嬉しいですか?
これがいまの、西洋資本主義によって近代化された日本の社会環境ですよね。
東洋式のホリスティックな石垣は、初めからその形の石を使います。
なので、組み合わせる方は大変ですけれども、それぞれの石の元々の素材、持ち味を活用しています。
もし、あまり大胆に削ってしまうと、その石の中で独自に強度を保っている釣り合いが崩れて脆くなってしまう。
ですので、基の素材の強みをそのままフルに活用できるように使う訳です。
そうやって、周りの相性のいい石と、各自の持ち味が発揮できるように組み合わせる。
これが「適材適所」という言葉の意味ですよね。
人間と組織として考えた時に、どっちが居心地がいいですか?
こういうことなんですよ。私が、伝統武術を通して世の中を見て、歴史を検討することで裏を取って、こうして発信していることは。
断片を切り張りして何かにする、という創作武術の考えはね、明らかに上の例えで言うと西洋式の物ですよね。
それは、世の中が洋化した資本主義社会だからなんですよ。
社会がこうなんだからそこで生まれて生きている人間がそういうことをするのは必然なんですね。
これ、メタ認知ですね。
なので、メタ認知が出来る人間だけが「あれ、ぼくはどうしてそう考えるんだろう?」と自浄作用を発揮して、伝統武術の本当の価値に触れることが出来る。
部品の役割とか、奴隷の役割とか、家畜の役割とかを誰かから与えられて、唯々諾々と自らその鋳型に入る努力をしている人間は、そこに至ることが非常に難しくなってしまう。
そして、鋳型に足りない部分が発生した時には、そこから外されて裸で放り出される。
もちろん、他人の価値観に合わせて必死で努力をしてきた訳だから、自分自身の持ち味なんてのは非常に希薄になっている訳です。
ただの出来損ないの既製品としかなれない。これが生涯ただ他人から与えられた作業をこなすだけの人生というものではありませんか? 管理職になろうがなんだろうが既存のコースの中でムチとニンジンで走らされている限りは同じことです。
そういう生き方とそのシステム、人間を幸せにするのでしょうか。
中国武術は仏教の行であるので、俗世の価値観から目を覚まして自ら歩き出すことが出来ないと意味がありません。
ですので必定、修行者はこういった課題と一生向き合ってゆくことになります。
そのこと自体が価値となってゆくわけです。
価値観の提示をして初めて、人は自らの生に納得と自由を得られるのではないでしょうか。