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男性性のゲーム

 人間の組織性の面における社会化に関して、ジェンダーという物が大きな影響を持っていると神話学のキャンベル教授は言います。

 これは人間と言う種の独特な物だと言います。

 というのも、人間は他の生物とは違い、独立するまでに平均15年ほどの成育期間が必要です。

 動物の個体で言う「若い雄」や「若い雌」になるまでに大変に長い年月が必要です。それまでは幼性として生きて習性や習慣を学んでいます。

 この時に、父性の不在という物があると言います。

 これ、サラリーマン社会で過程に父親が居ないことが多いという環境だけに限った話ではありません。

 狩猟採集生活を続けているような部族でも、このことは見られるのだそうです。

 彼らは生活に必要なほとんどのことを得てして女性のコミューンが行うと言います。

 男性は、村の外に出て食料を獲得したりすることが多い。

 このような生活様式の中で、子供と言うのはずっと母親の環境、つまり女性たちのコミュニティの中で育つことになります。

 とはいえ、男性たちが外に出ていない時間と言うのも実は沢山あるそうなのですが、その間、男性たちは男性たち同士でコミュニティを作って家の外に居るのだというのですね。

 イスラム社会でも男性は外に居て男性同士でコーヒーなど飲んだりしていると聴きますし、西洋でもやはりコーヒー・ハウスやパブなどのボーイズ・サークルの場に居ることが多い。

 夕方になれば仕事が終わって家に帰ってくるというような波平さん世代の昭和の環境でも、大人の男性と言うのは男同士マージャンをしに行ったり飲みに行ったり釣りやゴルフに出かけてしまう。

 どうやらこれは人類の習性のようなのです。

 そのような環境下で、子供がどのようにして15歳くらいまでの期間を過ごすかと言うと、承認、服従、懲罰の中でだ、というのがキャンベル教授の説です。

 これによって、遺伝子的な性別を問わず、子供と言うのは小型のメスとして調教されることになります。

 女性社会の価値観を刷り込まれてゆくのですね。

 この状態から抜け出ることが無いと、そのまま大人になっても子供はメスのままです。

 日本では特定の価値観や傾向に関して「オンナコドモ」というような差別的表現がありますが、これ、実は結構バックリと現実を掴んだ言葉なんですね。

 メスと幼体対オスというようにコミュニティが分かれるというのはもう、霊長類の多くにみられる習性のようなのです。

 そのようにして育っていく中で、子供はメスの社会性、組織性を刷り込まれてゆきます。

 しかし、身体的に大人になってくると、そこで突然男性の子供にはオスコミュニティへの徴発が起きます。

 ここで、メスコミュニティでの価値観を断ち切って、オスの世界での倫理に強引に切り替えるためにイニシエーションという物が発生します。

 典型的な例が割礼です。

 男性器の包皮を切除する。

 あるいは、バンジー・ジャンプであったり一人で危険な自然の中に入って得物を狩るということだったりします。

 そのようにして、保護してくれる女性の身体が無くなった環境に放り込まれて、独立しての生存能力を証明しなければいけなくなる。

 割礼は男性器を保護してくれる物の物理的切除であり、バンジー・ジャンプは立脚していた土台の喪失であり、森の中に放り込まれるというのは文字通り、すべてを無くした状況の経験です。

 つまり、疑似的な死と生まれ変わりのモチーフなのですが、ではそれを経験した男性の子供が大人になって、自立して一人で生きてゆくのかと言うとそういうことではありません。

 単に、今度はオス・コミュニティに移住するというそれだけのことなんですね。

 お引越しのための儀式です。

 そのオスのコミュニティでは何をしているのかというと、実はたいしたことはしていないことが多いと言います。

 子供がメスのコミュニティで生活をまかなえていたように、ほとんどのインフラと言うのは実は女性コミュニティ内だけで成り立つのだと言います。

 ですので、オスと言うのは別にやることがなくてぶらぶらしていることがある。

 そうすると何をしだすかと言うと、これがほぼ間違いなく、全世界の全民族的に「疑似的な戦争」であると言います。

 これが土着の信仰に基づく形になると、だんじりや御柱のようなエクストリームな奇祭となります。

 そうでない場合は、近隣の村と無意味な闘争を開始することがあると言います。

 仮面をかぶり、化粧を施して武器を持ち、隣の集落と落ち合って集団乱闘をするのです。

 もちろんこれは儀式的な戦争であるということが分かっているので、おおよそどちらかが一名死亡ないし重体となった段階で終了します。

 そのまま逆転を計ったり、勢いに乗じて相手の村にまで侵略したりということはしません。

 これには、オスの役割としての筋肉の能力を高め続けるというニーズがあると言います。

 オスであり続けるために、日常的に訓練を続け、定期的に疑似的戦争をするという必要があるというのです。

 古代ギリシャにおけるスパルタとアテナイのライバル関係や、英雄たちの闘争はよく知られていますが、実態はと言えばものすごくルールのある疑似戦争だったと言います。

 まず、収穫の時期になると、双方がそれぞれの地域のはずれにある農作地帯の脇の空き地に兵器と大将が乗る神輿、それから農具を持って集まります。

 戦争をしていいのは日が暮れるまでの時間。夜討ち朝駆けはご法度です。

 弓矢などの飛び道具は危ないので禁止。

 開戦したら、相手の神輿をひっくり返した方が勝ちとなります。

 勝った方は武器を置いて持参した農具に持ち替えて、あいての畑から作物を収穫して持ち帰ってよい。

 負けた方は恨めしそうにそれを見ているだけ。

 参加人数は100人程度。

 これが古代ギリシャの戦争らしいのですね。

 キャンベル先生の言う疑似的戦争の範疇にくくってよいと言えましょう。

 中国の械闘も同じくくりに入れても良い部分があると思われます。

 現在の我々もまた、ほとんど同じことをしていると言っていい。

 波平さん時代から続く、釣り、麻雀などもこの男性コミューンの疑似戦争習慣の延長にあるものだと解釈できます。

 ゴルフや競馬、パチンコなどもその範疇であるとも言えます。

 また、最近では健康的にフットサルやマラソンなどをする意識の高い人たちも居るようですが、これらもまた同様です。

 オンライン・ゲームなどがもっとも最新の露骨な形でしょうか。

 サバイバル・ゲームなどはまんま古代ギリシャですね。

 人間と言うのは、種族の習性としてずっとこういうことをしてきたそうなのです。

 その枠組みの中で、子供と言うのはメス・コミュニティの中の承認、服従、懲罰という価値観を刷り込まれる。

 女の子はそのままそこに居続ける。

 男の子はと言うと、オス・コミュニティの中で疑似的戦争に参入することでどうなるのかというと、やっぱりそこで承認、服従、懲罰を繰り返すんですよ。

 同じなんですよ。そこは。

 つまり、社会化する、組織化されるということは、結局そこなんですね。

 私たちが育った80年代、荒い子供たちは「大人たちは命令ばかり押しつけてきやがる! 俺はそんなのはうんざりだ!」と言って暴走族に入っては、ツッパッてパシらされてヤキを入れられて、っていう学校と何にも変わらない環境に至っていました。

 パッケージングが違うだけで、習性として同じなんですよ。

 承認、服従、懲罰。

 ツッパリ、パシリ、ヤキ。

 こうやって人は、承認、服従、懲罰を中核した存在に洗脳されてゆきます。

 個の自立などはまず不可能です。

「この仕組みはなんかおかしい、ぼくは自分の考えを試してみたい」と言っても「そんなこと言ったってお前なんか一人じゃ生きられないんだ」と承認、服従、懲罰の制度が取り込もうとしてきます。

 キャンベル先生はこれを、個人が自己を確立して良い存在になろうとしても、社会が「お前はそんな物じゃない」と言って邪魔をしてくると言った表現で著述しています。

 こうして人は、フロイト的段階の存在になり下がったまま固着して一生を終えます。

 個人と言う物にはなれないまま、集団の一つの構成物として終わる。

 こういった繰り返しの中で、ある時にその枠の中から神話的経験をなぞって別の段階に至れると、人は承認、服従、懲罰という無限のサイクルの外に一歩抜け出て、カルトの段階までは至りえます。

 社会から外れた人たち、ドロップアウトとした人たちが、カルト宗教や民族運動団体、ネットワーク・ビジネス集団や陰謀論カルトに移行するのがそれです。

 しかし、これはあくまで片足だけ一歩外に出ただけなので、本当に外に出たという訳ではありません。

 もう一方の足も外に踏み出し、重心を外の世界に置いた時が、本当に原型的世界に自分と言う物を立てて生きるようになった段階です。

 そのような社会構造と自己の確立と言った仕組みが、人類の意識には心理学的に内在しており、それが物語として残っているのが、神話という物の原型である、というのが神話学の視点です。

 私の場合は、元々小学生の頃から成績やスポーツと言う疑似的戦争の構造にまったく関心がありませんでした。

 そこに一喜一憂する周りの子供たちに「うわ……真に受けて言いなりになって心が動いてる……なんだこいつら……」とドン引きしていました。

 やたらに野球に子供を取り込みたがる大人に対しても、そうやって仕組みに組み入れようとしてるんだな、そんな見え見えのことをして恥ずかしくないのかな、と思っていました。 

 そういった、隣人と互いに競わせることで、大人が笛を吹いたら何も考えずに相争って言われた方向にまっしぐらに走り出すような存在に飼いならされることが恥ずかしくて仕方なかった。

 そのような疑似戦争の習性に基づく考え方は、必ず最後には戦争に至ります。

 いまの愚民化教育、反知性主義、陰謀論、ポピュリズム社会が、どこを切ってもそちらに向かっていることをみればこれは明白なことでしょう。

 自分という物に対して、社会が決めた価値のみに立脚しようとしているとそうなります。

 自己愛は集団的自己愛になり、戦争に向かってゆく。

 私は子供の頃から、狭い社会での序列を上げることよりも世界がどうなっているのかを知ることに夢中でした。

 その結果、いまここにいて、途方にくれながら見え透いた社会と距離を取っています。

 もしかしたら、私と同じく他人が決めたルールでの他者との競争に興味が無く、音楽や絵画に夢中になっていた子供だった人が他にも沢山いるのかもしれません。

 そういう人たちが、私の預かっている学問を受け継いでゆくべき人達なのではないでしょうか。

 承認、服従、懲罰と言った人間が作った拘束の外に生きて、世界そのものに直接生きるために。


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