先日、ライヴ動画で長野県の道祖神祭りを観ました。
三大火祭りの一つと数えられる奇祭で、藁で組んだ巨大な神殿の上に、四十路の厄年男衆が昇っています。
その下には、二十代の厄年男衆が立ち並んでいます。
四十路の厄年男衆は、やぐらを取り囲む村の人たちに上から藁を巻いた束を次々に投げます。
まずはそれを拾った子供たちがかがり火で火をつけて、それを持って櫓に点火をしにゆきます。
子供たちが終わると、今度は村民たちが同じことをして櫓を燃やしに向かいます。
この段階になると、二十代の厄男衆が村人の邪魔をして火を点けさせないようにします。
妨害はするのですが、四十路衆は櫓の上から藁束を投げ続け、村人はそれに火を点けて櫓に火を放とうとします。
二十代厄男衆は「火ー持ってこーい!」と村民たちを煽りながら、向こうが走ってくると突飛ばしたり松明と化した藁を払ったりして妨害をします。
見立てるに、道祖神のお祭りなので、これは恐らく、櫓が子宮で、火を持って走ってくる村人たちが精子なのでしょう。
着火すれば着床、そうして櫓が燃え上がることで生まれ変わりが行われて、古い年が死んで新しい年が生まれ、厄年の男衆も生まれ変わった物となる、ということであると思われます。
こういった火祭り、アグニ信仰の定型による解釈です。
これを見ていた時に、ライヴチャットで色々なコメントが流れていたのですが、多かったのが「どうやったら勝ちなの?」と言う意見でした。
それから「野蛮だ」「危ない」という物。
これですね。
完全に、キリスト教徒の思考に意識を塗り替えられた、資本主義国の人間の考え方です。
資本主義とは、すべての物が資本であるという考え方、物事には資産価値があり、それを交換することが世の中の基本だという社会観のことです。
ですので、そこには常に勝敗という概念が入り込みます。
すなわち、どちらが損をしてどうなれば得になるのか、という概念です。
これによって、市場競争主義と言うシステムが成り立っています。
私たちはそこに生きていることで、それが当たり前の大前提だと思い込んでしまっています。
私はかつて、キューバン・ルンバという性的な男女の掛け合いをする民族的舞踊を愛好していたのですが、踊っているとよくオーディエンスから聴こえてきたのがやはり「どうやったら勝ちなの?」「あぁなれば1点?」とか「イヤらしい」という声でした。
同じことですね。
現代日本人は、物事はすべて競争で何か知らないルールがある、という思い込みに囚われている。
物事がスポーツだという洗脳状態にあります。
以前に書いた、疑似戦争の価値観に染まってしまっているんですね。
物事はそういうことではありません。
それは資本主義の病、かつて「アメリカン・サイコ」と呼ばれた病状です。
他人の車や自分のバッグ、ひいては自分の恋人や子供をよその物と較べて採点し勝敗を決めるゲームが人生だと自然に思ってしまうのは、精神の病だと言うことです。
すべての物は一つの貨幣基準によって同一線上で計測が可能だという資本主義価値観がそれを形成しているのは間違いありません。
これは、各人の個的な価値観の存在というものが見失われているから起きる現象でしょう。
内面の空洞化です。
他人にとって0点の物が、自分にとっては100点だというのは当たり前です。
自分の恋人や子供を、もっと良い数字的ステータスのあるよその恋人や子供と交換すれば得なトレードだということは本来ないはずです。
自分の恋人や子供は、自分にとってだけ価値がある物です。
それは自分には自分の物差しがあるからです。
それはなんでしょうか。
自分の人生と言う物でしょう。
それを確立できないまま、量産品として社会に与えられた機能をこなしていくだけの生き方をしているから、そういう状態になってしまう。
そこから、そういった経済的な勝敗のレートで測れない祭や踊りを「野蛮」だという視点が出てきます。
いや、野蛮なのは間違いないのですが、その野蛮をネガティヴな意味で感じるという感性ですね。
これを、文化人類学的には文化進化論んと言います。
つまり、資本主義的、西洋白人キリスト教的価値観を至上とし、それ以外の文化を低い物だとみなす価値観です。
私は、すべての人たちの人権が平等であることを願いますが、同時に男尊女卑、家父長制にも文化的背景があることは決して見落としてはならないと思っています。
ですので私が女性と踊るときに、そこに文化的背景としてのマチズムが存在することは100パーセント否定しませんし、自覚的に踊っています。
それを相対化し、その優位性を日常生活の理念として可能な限り持ち込まないことが重要であると感じています。
ヒジャブを付けることを男性社会が強制するという国のあり方には否定的です。
しかし、その文化があったことを理解し、つけていたいと望む女性がヒジャブを纏うなら、その自由は尊重すべきでだと感じます。
60年代、アメリカではウーマン・リヴ運動が盛んになり、多くの開明的な女性がブラジャーを焼き捨て、女性だけがそんな物を付けるのはおかしいという抗議運動をしました。
だからと言って、それ以降もブラジャーを付け続ける女性を、封建的、男尊女卑に賛同していると言うことは不当でしょう。
同時に、ブラジャーをしていない女性を淫乱だ、男性を誘っているのだから手を出していいのだと思うことも大きく不当でしょう。
そこには、分別という物が必要であると思います。
私はいま現在は日常的に和装をしていませんが、それを恥ずかしく思いはします。
自分の民族の生活が出来ない、不適格な日本人だと自覚します。
だからと言って、やはり和装の生活に戻ろうとはしていません。
試しましたが不便でしたので。
一方で、和装をしている人たちを「異様だ」と見なす人々も居ます。
スポーツクラブのロッカー・ルームで着替えている時に、私が褌を履いているのを見た友人は大笑いしていました。
小学生の時に明治生まれの祖父から褌をもらって以来、私にとってはドシは快適な下着です。
しかし、現代の日本においてはやはり一般的な衣類ではありません。
ですが、それでも日本男児か! ご先祖様に申し訳ないとは思わんのか! 天皇陛下に土下座せい! と他者にビンタをかますような気持にはまったくなりません。
それぞれの人には、それぞれの文化があります。
すべての民族文化は野蛮な物で、洗練されて進化すればキリスト教圏の文化になる、という文化進化主義に対して、それぞれにはそれぞれの文化があって優劣とかの概念は介在しない、と言う考え方を文化相対主義と言います。
私は陰陽思想で生きている行者なので、なんでも相対化します。
文化人類学の大家であるレヴィ=ストロース先生は、文化進化説こそが野蛮で非文化的な物なのだと言いました。
私は、文化を持っていない、無自覚なままである人々が最も野蛮な人たちだと日々考えています。
そのような、無自覚な自分か中心主義の人ほどおもんないものはおりません。
ちっぽけな、了見の狭いつまらない人生を送る人たちです。
自分以外の物に対してはすべて「そんな訳あるか!」「決まってるだろ!」「当たり前じゃん!」と、他の誰にも見えない謎の壁を設定して、その中で自己防衛をして生きている人たちです。
これがナルシシズム、自己愛です。
これが共有されて同族社会の中で通ると、それが集団的ナルシシズムと呼ばれます。
自覚がないということは、彼らは常にポジション・トークしか出来なくなるということです。
メタ認知も不可能で、自浄作用を働かせることが非常に困難です。
なぜなら「自分たち」であるということが正統性であり、「自分たちとは違う」ということが悪いことだという「ルール」がなぜか厳守されているからです。
根拠については考えたことなどないのでしょう。
そこに至る思考の道に「バカの壁」があるからです。
その集団的ナルシシズムによって結ばれた共同体を取り囲むバカの壁の外に出て、外からの視点、感性を得ることが「闇の力」の獲得です。
この時に、ナルシシズム的価値観を捨てきれなければ、それは単に集団的ナルシシズムの中でそれに合致しないことを言うだけの狂人として終わります。
もし、そこでも通じるだけの状態で感性を得られれば、それはカルト(集団)の改革者となりえます。
しかし、本当に先に行けば、それは誰にも理解されない真実の世界に生きる物として、完全に共同体の外の存在となります。
真実に生きる物は、集団的ナルシシズム価値観によって区切られた共同体の外に生きる物になるからです。
私にとってはそれは、すべての知性と理性のある人間にとって当たり前の状態でした。
しかし、生きるほどにそうではないことがわかってきました。
どれだけの知者であっても、それはただの脳と言う臓器の能力に優れた人に過ぎないので、ナルシシズムの外に出ると言うことが容易ではないようです。
本当に、ごくわずかの人間しかそこには至れない。
だからこそこれは、共同体の外にある闇の力だと言われて来たようです。
先日、いつも英知の光を与えてくれる友人の阿闍梨に「闇の力」を獲得した後の、社会への帰還の旅に入ったのだと祝福を戴きました。
本職の行者、聖職者からの祝福というのは、実にありがたいものです。
そしてそれは私が、そこから共同体への再加入の形を見つけてゆきなさい、という導きの言葉でもありました。
このような闇の力の獲得と言うのは、帰還と合わせて完成をみます。
それを神話学では「ゆきてかえりし物語」と表現しました。
私自身が本当にその段階に至ったのかはわかりませんが、時間を掛けて考えてゆきたい課題です。