前の記事で自然な感じの立ち方の五祖拳に生々しさを感じたということを書きました。
今現在、私がマスターとして指導をしている武術は蔡李佛拳にしてもラプンティ・アルニスにしても、歩幅を大きくして兵器を重視して立つ、戦争の武術です(まぁ、どちらも同根なので立ち方が同じなのは当然なのですが)。
ですので、白兵戦を想定することの無い現代人の我々からすると身近な用途の要求は薄い。
だからこそ、自己の確立や禅の行としての瞑想であるという主目的に取り組みやすいところがあります。
しかし、ここまでくる中では私も色々な物を色々な先生から教わってきましたので、それとは真逆の物も得てきました。
つまりは、ただただ人を殺めるだけの暗殺術のような物です。
これはもう、武術的な打ったり固めたりということをさえほぼしない。
ただひたすら、致命的な、取り返しのつかない行為だけをして相手を死、ないしそれに近い再起不能に即時追いやるだけの流派と言う物があるのです。
グランド・マスターから「誰にも教えてはいけない。お前に子供が出来たらそれにだけは伝えていい」と教わり、同門の若い先生にこれがどのような物なのか質問をしてもただ「これはもっとも危険な武術なのだ」と言われて案に語ることを忌避されたことがあるような物ですので、流派の名前も出しません。
ネット上でも見つけることは無く、一時期一瞬海外のサイトで出たのですが、すぐにコメント欄で同流派の人間らしき人たちからの書き込みで荒らされるという事態が発生し、削除されたという流れを目撃しました。
正直、練習中はその致命性に嫌気がさすほどの凄まじさでした。
まったく格技でも武術でもない。
どちらかというと医学の悪用と言ったような、ただ人と言う生物の機能を解体させるためだけの物であるという印象でした。
中国武術でも、このような奥義についてはよく耳にするところです。
ある種のツボをそれなりの手順で点穴することで、死に至ることがあるという死穴については、海外から学んだ友人から聴かされたこともあります。
痛みもないし、すぐに効果が出る訳でもありません。
ある組み合わせで何か所かを触られたりさすられたりした後で、段々と神経機能やホルモン分泌に変調をきたしていき、やがて脳出血か心臓発作を起こして死亡、ないし麻痺の残った廃人になってしまう。
言い伝えでは、気が狂って死亡するなどと言われていたりしますが、これは恐らく脳障害の結果起こる人格障害のことを言っているのでしょう。
あくまで人格に異常をきたすのは副作用であって本来の効果とはまた別です。
ただ廃人にそうするだけなら発勁で打てばことたりますが、そのような強い威力を用いずに触れるだけで、というところがこのやり方の大きな特徴だと言えましょう。
海外の武術雑誌では、そのような「デス・タッチ」が武術の最上の奥義だと言われることも多い。
しかし、そのような暗殺技術を体得することで、人は一体どれだけの重荷を背負うことになるでしょう。
あるいは酔っぱらっていたり、あるいはなにがしかの理由で正気を失ったりした折に、何かとんでもないことをしでかすということも人間の一生にはあるかもしれません。
また「あー、この人は居なくなっても別に誰も困らないな」とかあるいは「居なくなった方がいいな」と思ってしまったときに、他人に気付かれることなく、少し触れるだけで他者の存在を抹消できるということは、一面、人の魂への究極の試練であるのではないでしょうか。
だからこそこのような、キャンベル先生言う処の行に伴う「闇の力」は充分に準備が出来た人間にしか学ぶ必要が無い物です。
身の丈を過ぎた力は、必ずや本体を乗っ取り、その身を破滅させる。
大きな器と責任感、倫理観、公共への意識、そして本当に自由に生きることとはどのようなことかという自覚が無ければ、かえって自らの人生を良くない物にすることは間違いがないでしょう。
そして、それらを獲得するためにこそ、我々は行をして世界を認識し、自分を相対化して日々を送る。
そう考えると、やはりこの道にそのような物があるというのはある種の必然であるようにも感じる次第です。
ただやはり、非常に慎重に深いところに隠しておかなければならない。