先日、地元の元祖ヒッピー、ロバート・ハリスさんの文化紹介FM番組に、脳科学者の養老猛先生が出てらっしゃいました。
これは、現行の日本社会に対して異を唱えるお二人のお話と言うことで大変に興味深い物です。
ヒッピーと言うと非科学的、自分に都合のいい夢物語を主張する甘やかされた非現実的なバカ者だという見方もありがちでしょうが、しかしハリスさんはさすがにそこは年季の入った元祖ヒッピー、見解も堂に行っています。
理想郷を求めて世界中を旅した結果、本当に理想的なコミューンは世界のどこにもほとんど存在しない、またあるとしてもそこは需要人数が限られていて、外から来た流れ者を簡単に入れてくれるところではないと著述されていました。
また、現代のヒッピー後継者たちに関しては「彼らは科学的なことをおろそかにしすぎている」とスピリチュアルへの批判をきちんと公言していらっしゃいます。
科学と言うことで言えば脳科学の養老先生なのですが、こちらは心理学などと言う物は時代遅れの占いくらいに思われていて、物理的な脳の働きにしかほとんど関心がないご様子。
つまり、ふわっとしたところの薄い、かなりのガチンコな自由への視点を持ったお二人だと言えましょう。
二人のお話の中で養老先生がおっしゃってたのは「自分探しなんてしている奴はバカだ。そこにいる自分を探している自分は一体なんなんだ」と言うことを言われていました。
これはちょっと面白い見解だと思いました。
脳科学者らしい、あくまで脳に視点をおいたお話だと思ったのですね。
私の見解としては、自分探しと言って自分を探す人というのには、実はあったことがありません。
アジアの国で旅をして言える若い人達や中高年の人達と沢山すれ違いましたが「自分探しをしている」という人は一人もいませんでした。
ですのでまず、この「自分探し」と公言している人の存在自体がいまはもう存在していないユニコーンなのではないかと思うのですね。
もしかしたらこの国がいまよりもっと不自由だった80年代くらいまではそういう人も居たのかもしれません。
しかし、世界を旅するバックパッカーは変わらず沢山い続けています。
では物理的には同じことをしている彼らは何をしているのかというと、それはつまり、世界を観ているということなのではないでしょうか。
当たり前ですね。
そして当たり前のことをしているので、彼らはバカではないと言えましょう。
人間の認識と言うのは何で出来ているかと言うと、自己認識と世界の認識ですね。
その両者で自分の識と言う物がなりたちます。
もしかしたら、60~70年代くらいまでのヒッピーのような人々は自分探しをしていたのかもしれません。
でも、少なくとも私たちの世代はもうちょっとクレバーに、自分が適応したりとかなにかチャンスのような物を求めて旅をしている人が多いように思います。
友人の中にはインドでバイクの買い手を見つけて日本で見つけた中古バイクを流通するルートを確立していた者もいました。
私自身もある意味、アジアの民俗武術の体得をしてそれを母国に持ち帰ると言う「武術貿易」をしているとも言えるかもしれませ。
逆に、アメリカのスラムで古着のワゴンセールをあさって日本に良い値でおろしているバイヤーの手伝いをした経験もありました。
やっぱり、ネット世代で世界との距離が近づいた世代は、自分と言うより世界を探して何かを見つけようとしている気がします。
戦後ヒッピーのハリスさんが曰くには、自分探しと言うのは承認欲求と言うことだと言っていました。
なるほど、それならなんとなく話が通るように思います。
他人に認められる自分と言う物を見つけようとしている。
でもそれは、本当にありのままの自分ではきっとありませんね。
だとしたら、養老先生の言うように、探している自分自身が自分だと言うことになるように思います。
もしそのような考えの、昔ながらの自分探しの人が世の中にいまも居るのだとしたら、それは確かに、非科学的なスピリチュアル主義者の中にいるかもしれません。