羊四部作の最後で、身の回りの人々すべてがこの世から消失した後、主人公はそれまで続けていた世相への抵抗を手放して、誰よりもうまくこの世界とダンスをしてやる、と嘯きます。これが「ダンス・ダンス・ダンス」のラストです。
彼の物語はこれで終わり、次の新作「ねじまき鳥クロニクル」三部作が始まります。
ここでもまた、主人公の愛する人が消失します。
その事件をめぐる中で、主人公は自らイドに入り込んで異界に通じてゆき、頂上的な存在となってゆきます。
これは、心理学的見地から神話を研究したジョーゼフ・キャンベル教授の学問そのものの構図となっています。
自らの意識の深淵に迫ってゆく経験を通してゆく主人公の一方に、ある邪悪な人物が描かれます。
彼はマスメディアの寵児であり、主人公から見ればまったく意味のない薄っぺらな存在であるにも関わらず、大衆を扇動してその支持を得て政界に乗り出しています。
どうですか。
まさにいまのこの国そのものを描いているようには思えませんか?
この物語では、かつて満州で起きた戦災時の記録についての調査が行われます。
それはつまり、前の羊四部作において邪悪を世に振りまいた羊が行ったことの具体的描写となっています。
酸鼻を極める記録に触れたのち、最終的に、異界の存在となった主人公は、この邪悪を撲殺して物語は終わります。
この展開に対して、海外の読者からは「自分と敵対する存在を暴力で排除して終わるなんてひどすぎる」という高いレベルでの民主的な意見が作者の元には届いたそうです。
しかし、この後、この傾向はさらに強まってゆきます。
少し間を明けた次の長編「海辺のカフカ」では、主人公は14歳の少年です。
今度の小説では、明確に神話のモチーフが直接語られます。
ギリシャ神話のように、生まれながらの父殺しの予言を得た主人公は、そのエディプス・コンプレックス的な呪いから逃げるように実家を離れて旅に出ます。
そしてその先で、両性具有とも言える賢者と出会います。
両性具有とは、キャンベル教授が言う処ではシャーマンの特性だとされています。
主人公はそのシャーマンの勤める図書館に身を潜めるのですが、彼を追う邪悪の力はうごめき続けています。
その邪悪の力を沈めるために、超自然的な存在が別の青年を自らの代行者として導きます。
最終的に、その邪悪な存在は「この世には、殺すしかない邪悪な存在」と呼ばれて、異界の境界のような場所で葬り去られます。
少年は元居た場所に戻ってゆき、こうして神話学で言う「行きて帰りし物語」が形成されることになります。
羊四部作において邪悪と戦争が描かれ、ねじまき鳥三部作では戦争という物の詳細が描かれました。
殺すしかない邪悪との決着の場所に向かう過程で、少年カフカは大戦から逃れてきた逃亡兵たちとすれ違います。
つまりは、羊の悪に取り込まれて邪悪な存在であることから逃れた人々です。
こういった描写を経て、村上春樹的神話世界の様相が私たちの目の前には見えてきました。
つまり、私の本分である世界です。
つづく