「少年カフカ」から中編を挟んで描かれた長編が「1Q84」でした。
このタイトルは、邪悪な権威主義に支配された世界を描いたSF小説「1984」を下敷きにしており、とうとう春樹が隠さなくなった、という感を与えます。
つまり、彼が描こうとしているのが邪悪の扇動と大衆の愚かしさであり、SFや冒険小説などの文脈を引いているということに関してです。
1Q84に関してもっとも驚かされるのは、そのプロットの明確さです。
主人公(の一人)は長い鍼を使って相手を殺す腕利きの女性暗殺者という設定です。
その彼女が、世界に悪を広めているという新興宗教団体の教祖を暗殺に向かうという様が描かれます。
それでSF小説です。
春樹、バカになっちゃったの? とちょっぴり驚きました。
あまりにもフィクション的すぎるプロットだからです。
この物語において、抹殺すべき教祖はすでに役割を果たしていることが描かれます。
「1984」で描かれていたような巨大な悪の権力と言う物はもう存在しておらず「リトル・ピープル」たちが支配をしているということが教祖本人から語られます。
邪悪な指導者が羊のような大衆を扇動する必要はもうなくなり、大衆そのものがもう充分な邪悪さを備えたという意味だと解釈しても良いのではないでしょうか。
そして、その大衆化が行き渡った時代に合わせるかのように、プロットがバカみたいに明確な物になっているというように私は解釈しました。
明らかに、世の中の、この国の民心の状況は悪化しているのです。
この作品の後、中編をまた挟んで「騎士団長殺し」が描かれます。
第一部のタイトルは「顕れるイデア編」で、第二部は「還ろうメタファー編」です。
イデアは哲学の、メタファーは神話学における重要なモチーフです。
キャンベル教授は神話はすべてメタファーであると語っており、「少年カフカ」の中では神のような存在として人々を英雄の旅に導く存在が、自らのことを「自分はメタファーなのだ」と語っています。
この長編の後が、「街とその不確かな壁」となります。
今回は、ハードボイルド的な暴力や犯罪などの激しい要素がまったく存在していないと書きました。
大変に内省的な、静かな作品です。
しかし、にも関わらず「1Q84」のようにプロットが明確であり、私は読みはじめてしばらくしてから、まるで自分が常垣光太郎を読んでいるかのような錯覚を起こしました。
アフター春樹のエンタメ作家のタッチに似ているというのもおかしな表現ですが、春樹の文体を良しとしてそれでファンタジーを描こうとした後進と非常に近しい読感になっているのです。
つづく