「街とその不確かな壁」は、まるで後続のエンターテインメント系作家が書いたように非常にプロットが明白な作品であると書きました。
しかし、大切な物を喪失した心を描く大変静かな文学です。
ですが、驚くほどにエンターテインメント的な手ごたえを兼ね備えている。
例えを出しましょう。
「舞台は東北の町」「街を取り囲む不可思議な壁がある」「謎の能力者の少年が出てくる」「少年は、イエロー・サブマリンの少年と呼ばれている」「その能力はカレンダー・ボーイと呼ばれる」
ジョジョの奇妙な冒険みたいじゃないですか?
思えば、初めて東北の小さな町を舞台にしたジョジョ第四部に登場する殺人鬼、吉良吉影は大変に村上春樹的なキャラクターでした。
彼には非常に印象的なキャッチコピーとも言うべきものがあります。
「吉良吉影は静かに暮らしたい」
今回の「街とその不確かな壁」は、三世代に渡る、静かに暮らしたい人々の物語です。
犯罪も戦争も今回は直接関与はしてきません。
風の歌を聴けやノルウェイの森のように、背景にあらわれもしません。
「殺すしかない邪悪」を明白な形で描き、そして殺してきたことで、もうそれを描く段階ではなくなったのかもしれません(もちろんそれは殺すしかない邪悪が殺されたという意味ではありません。もうすでにそれを殺すということでは間に合わなくなったという状態であるように思われます)。
だからこそ、今回描かれる三世代の登場人物たちはみな、自分がそこに隠れ住むことが出来る静かな場所に向かってゆきます。
それを作中では「究極の個人図書館」として描きます。
これはその個人図書館の完成を巡る物語であり、不確かな壁とはいわばその図書館の外郭だというように感じられます。
この壁の役割について、イエローサブマリンの少年は、外からの脅威から内側を守るためだと語っています。
その脅威とは何か、と話手の問いに対しては「疫病」と答えが返ってきます。
COVIDの時代の物語だという感じがします。
ではその疫病とは、中世ヨーロッパにおけるペストのような物なのかと言えばそうではありません。
イエローサブマリンの少年はそれを「魂の疫病」とします。
これまでの流れから読むと、これがすでに大衆の間に行き渡ってしまった邪悪さ、そしてその邪悪な日常のような物だと解釈することは不自然ではないでしょう。
1200枚に渡るこの物語そのものが、我々読み手におけるある種の「壁」のように働きます。
この物語の中には、暴力も戦争もありません。
そういうやかましくて猥雑な物が存在しない。
むしろそれらを強調して書いていた「海辺のカフカ」や「1Q84]とは対照的です。
この物語の登場人物たちがその静かな場所に至ることを切実に求めているがごとくに、我々はこの物語の中にいる間、その静かな在り方に至ることが可能です。
三部構成で描かれるこの作品では、そのすべての部の最後で、登場人物が別の場所に移行することで終わりとなります。
つまりは、消失です。
これもまた、ダンス・ダンス・ダンスで描かれた物と同じ消失の在り方と重なるところです。
純粋すぎる物はいつか、静かな場所へと消えてしまう。
この物語で描かれる「街」を内なる壁の中に抱くことで、人は「個人図書館」になることが出来る。
外の世界の自分は、その内なる自分の影でしかない。
これは、私たちの行の世界に充分に通じた物語でした。
私もまた、誰からも姿が見えなくなるくらい、静かな生き方をしてゆきたいと思い、自らを隠者だと標榜してこの学問と伝統継承の暮らしを送っています。
これらの身体哲学の行そのものが、うちなる静けさへの道です。
外の世界の猥雑さ、卑小さ、歪んだ邪悪さが今後どうなってゆくのかはわかりません。
しかし私はその中で、この内なる静かな在り方こそを自分自身のもっとも中核の本質だとして抱き続けてゆきたいのです。