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ワイスピとうとう完結へ 5 ネタバレ

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 前回、ジェイソン・モモアの演じる「悪魔」ダンテが全然薄っぺらなキャラクターだったということを書きました。

 取って付けたような上辺だけの狂気の仮面しか私には感じられませんでした。

 しかし、この仮面と言うことに目を向ければ実はシリーズを通して一つのモチーフとして繰り返されていたことが分かります。

 一作目の主人公は潜入捜査官で、ギャング団の一味と言う仮面をかぶっています。

 その後も、洗脳されて敵対するキャラクターが居たり、死んだふりをして死者の仮面をかぶっていた物があり、敵対する捜査官として出てきたキャラクターも作品が変わればその役職(ペルソナ)を脱ぎ捨ててドムたちの仲間に入ったりしています。

 ドミニク自身も魔女サイファーによって悪役の仮面をかぶりながら、人知れず見方をしてくれそうな人々に応援要請のサインを送るという芝居をしていたりもしました。

 この、見えている人物像が実はそうではない、というのはもしかしたら意図的なものなのかもしれません。

 創造物の批評の世界では、少なくとも繰り返し登場するモチーフには意図があると解釈するのが普通です。

 その意味で言うと、これは登場人物全ての表象の変化の物語だと受け止めたい。

 ドミニクが、どうやらドミニカ出身らしいけど詳細は語られない、というのもおそらくはそのような、受け取り側の客体制に意図をされているためでしょう。

 結果、彼等ファミリーはラテン・アメリカ系の人種全ての、国籍を問わない英雄となりました。

 もしドムをドミニカに限定してしまったら、ライバル国のキューバは置き去りになったかもしれません。

 その意味では、冒険の部隊としてたびたび登場しながら、ダンテの父親の組織の本拠となっていた国がブラジルでありながら、ダンテ自身はポルトガル出身という細かい設定があったのも配慮の結果なのかもしれません。

 そのようにして、文化圏全体にまたがっていくつもの容貌を見せるのが神話に出てくる神々や英雄です。

 この作品はドミニクのセント・ドミニクの試練を語る映画だと書きましたが、ラテン・アメリカ圏には独自の聖人信仰という物があります。

 これはそれこそポルトガルやスペインの聖人信仰とはだいぶ違います。

 ラテン・アメリカに住む、土着の神々やアフリカから連れてこられて現地で労働力として使役された人々の神様が、キリスト教の聖人と同一視されて一体となっているのです。

 これらの、私も儀式のダンスをやっていたキューバの信仰サンテリアや、ブラジルのカンドンブレなどと呼ばれる土着宗教は、アメリカの白人種にはひとくくりにヴ―ドゥと呼ばれています。

 昔、ミシシッピのある黒人が、ヴ―ドゥへの恐怖を語る白人種に対して「ヴ―ドゥなんてものは本当はないんだ」と語ったという文章を読んだことがあります。

 つまり、それはカトリックなのです。

 アフリカの神様、オグンやエレグアなどがカトリックの聖人と同じ存在だと受け止められて発生した体系です。

 ゴスペル音楽もジャズもその世界観から生まれてきました。

 ジャズのサブ・ジャンルに「ジュジュ・ミュージック」という物があります。アーティストのJUJUさんの名前の由来になったものですね。

 このジュジュというのは、サンテリアにおける呪具、あるいはその魔法の力のことです。

 信仰の音楽やダンスがこうやって現代カルチャーに発展してきているんですね。

 このように、神々は場所や時代によって変化をしたり分裂したり融合したりします。

 北欧のオーディンやトールが、ローマのジュピターやユピテルの現地アレンジであるようにです。

 そして、ローマの神々はギリシャの神々のアップデート版となっています。

 つまり、インド神話で言うアヴァターラ、化身ですね。

 ワイスピも化身のお話だと言って良いのではないでしょうか。

 そして、これら化身の神話とラテン・アメリカで思い出すのが、メキシコのプロレス、ルチャ・リブレです。

 ルチャの選手たちは、覆面をかぶって神様や聖人の役を演じます。

 それは縦横無尽に勇躍する宗教的、神話儀式の仮面劇です。

 これらプロレスのストーリーの中で、レスラーのキャラクターはたびたび悪役になり、善良になり、敵対し、同盟を組み、引退し、また復帰します。

 キン肉マンのストーリーもこのような、仮面をつけた超人たちによる神話的儀式の繰り返しでした。

 ドウェイン・ジョンソンがシリーズに呼ばれたのは、ただ彼が俳優として人気があったからでも、肉体が仕上がっていたからでも、スキンヘッドだったからでもないでしょう。

 人種的なもの、持っているファン層、彼らの英雄としての仮面など、プロレスとワイスピの構造上の共通点のためではなかったかと思われます。

 そして、だとしたら作中で繰り返し、何の必然性もなく乗り換えられる自動車たちは、ルチャ・リブレにおけるマスクの役割を果たしているのではないでしょうか。

 この文脈で言うならば、このシリーズは人類史にずっと伴ってきた、神話の最新の形態の一つだと言うことにはなりますまいか。

 そんなこのシリーズ、次回で本編は完結という発表がされていますが、この読み方からすればいやいや、五年後、十年後、また同じ神話が繰り返し語られても当たり前だという気がします。

 なぜなら神話と言うのは、民族の持つ集合無意識だからです。

 作中、ドミニクたちファミリーを指して吐かれた言葉があります。

「あいつらは車を信奉するカルトだ」

 まさに、集合無意識を共有する特定の客層への言葉だとも取れないでしょうか。


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