なぜ、愚民化政策にやられてしまった人々は歴史改竄に励むのでしょうか。
彼らを扇動する政治家たちは、過去の事実を突きつけられると一様に「様々な見解がある」というようなことを言って終わりにしようとします。
こういった連中に彼らは踊らされてしまっているのですが、学者の内田樹先生は、物事はすべて相対化が出来る物だが、そこで思考が停止してしまうのは低能だからだ、とおっしゃっています。
私は陰陽思想の継承者ですので、当然すべては相対的な物だと思っています。
そこからがスタートです。
「色々な見解がある」が前提で、その上で見解をしめしてゆくところからが始まりです。
しかしそのスタート地点は、バカにとってはゴールなのです。
それはひとえに能力の問題であり、内田樹先生が言う「低能」だからです。
そこから先に行く能力を持ち合わせていない。
なぜか。
本を読まないからでしょう。
自己啓発書や実用書のような本なら読んでよい。だが自分で物を考えられるようになる本はダメだ、というのが華氏451の中での禁書のルールです。
低能の皆さんも、まったく同じ基準で本を読んでいるのではないでしょうか。
あるいは、愚にも付かないポルノの類は読んでも、古典的名作や人類史の楔となったような物は読まない。
ポルノと言うのは直接的に性的快楽を意図した物とは限りません。見るだけで直接的に感情の換気が容易な創作物のことをポルノと表現します。
美味しそうな食べ物を観賞するエンターテインメントのことをフードポルノと言いますね。
そのように、初めから感動したいと思って消費した物で感動し、笑いたいと意図した物で笑う。自分の感情の確認行為のような、想定をなぞる読書がポルノと呼んでいいでしょう。
「エモい」とはそういうことですね。
作中ではしきりに、洗脳された人々は「楽しい」のために生きていると繰り返されています。
既知の楽しいをただ反芻するためだけに生きているのです。
こうなるとどうなるか。自分の外にあることを何一つ学ばないということになります。
だからこそ、既知の想定の中で簡単に操作されて洗脳されて行ってしまう。
ガイ・モンターグは逃避行の中で、彼を待ち受けていた読書家の秘密組織と出会います。
これが有名な、自分たちが本を完全に内側に取りこむことで自ら本となった人々です。
彼らの中には、あのオルテガ・イ・ガセット先生の「大衆の反逆」となった人もいます。
私たち伝統文化の継承者は、恐らく彼等と同じ存在でしょう。
物を考える力を失った人々の世界の中で、数少ない人類の英知を受け継いで内側に保存している人間です。
物を考える力を失った人々を、内田先生は低能だと呼びました。
そしてその低能が世の中をディストピアかするのだとも明言しました。
この低能、一体何の能力の低下でしょうか。
知性や知能だとは言いませんでした。
理性だと彼はおっしゃいました。
知性や知能が低いと言うのは、愚か者だと言うことです。
では理性が低いと言うことは?
狂っているということでしょう。
感情的、情緒的、非抑制的。
これらもまた、エモいと言い換えることが可能です。
オルテガ先生ならこれを、「大衆の反逆」に記述したように「甘やかされたぼっちゃん」と呼ぶことでしょう。
それが彼の言う「大衆」です。
そして大衆と言うのは、遺産を継承するのではなく、ただ消費して使いつくすだけの存在だともみなしています。
つづく