多くのディストピア小説では、最後に主人公側が敗北して終わります。
結局は人間はバカばかりになり、すべては権威に飲み込まれて空洞化してゆく、という形で巨大なシステムの遠景が想起されて終わることが多い。
しかし、華氏451度では変わった終わり方をします。
本の人間になると決意して旅立つところで物語が終わっても良いのに、そこからある種の結論が出されるのです。
それは、彼が逃避してきた街に、爆弾が落とされてすべてが吹っ飛ぶと言う物でした。
つまり、隠蔽されて何後もないかのように語られていた戦争が現実の姿を見せて、虚構の生活を根こそぎ焼き尽くすのです。
ウソの世界に生きてると、現実的には無力に滅びるだけだ、ということが力強く描かれて終わるのです。
その虚構の世界を管理してきたモンターグの勤め先である役所は、フェニックスのマークがシンボルとして使われています。
作中、この鳥は神秘的な物や永遠を示す崇高な物ではなく「愚かな鳥」として語られます。
曰くには、一定の時が来ると自らを「火葬」する。そしてそこから飛び立ってまたしばらくたつと同じことを繰り返す、というようにです。
これが私の神話学の見地に繋がりました。
神話学では、当然フェニックスは永遠の象徴であり、死と生の直結という生命の円環(サークル・オブ・ライフ)の文脈で語られます。
ヒンズー教の女神、カーリーが子供を産み、自らそれを食い殺すというモチーフも同じです。
ネイティブ・アメリカンの信仰にある、自分たちが食料とした獣を祀り、それを守護神として自分たちの例も獣になるという物も同様だと神話学のジョーゼフ・キャンベル教授は解釈しています。
人間至上主義(ヒューマニズム)であるキリスト教以外の多くの神話では常にナチュラリズムの立場が取られていました。
自然こそが中心にあり、人類はその一部だと言う考え方です。
ですから、限りある生の中で過酷な環境や同じ生命体である獣たちと対等の生存活動をした結果、いつかは自分たちも死んで土に還り、そこで他の動物や植物の養分となる、すなわち地に還るという思想です。
だから地母神であるカーリーが子供を産み、自ら食らうというサークル・オブ・ライフが信仰されたのです。
そのようにして生き上げた物の命は細分化されて、他の命に繋がれる。
しかし、キリスト教の布教によって人間中心主義が当たり前になってしまった我々は、ほぼ無意識のうちに自分たちを特別視します。
アヴェンジャーズ・シリーズでも示唆されていたように、現状の環境問題のほとんどは地球の人口が半分になれば解決すると言われています。
一般に、一時に沢山の子供を産卵することで種としての延命を図る生物の幼生は、ほとんどが成体に至るまで生存することがありません。
ほとんどが他の生物の食料となったり、夭逝して環境の養分となることでサークル・オブ・ライフが円環するのです。
しかし、異例なほどの長寿を持つ人類は、年中を問わない発情期による産卵可能性の多さがそれに加わって、更には環境そのものを自分たちが生きやすいように変化させると言う特性によって驚くほどの増殖をしました。
サークル・オブ・ライフの抑制機能から外れてしまったように思います。
だとすると、人間の中にある愚かしさや理性の乏しさ、内田先生の言う理性の欠落のような物は、主としての人類が増えすぎることを抑制するための機能として初めから内在している物なのかもしれません。
そのように自らが存在していると言う理由で狂ってゆくということが、生命の円環に必要な機能であったのではないか。そんなようにも感じるのです。
その視点から見れば、本を読み、知性と理性を獲得して賢く生きると言うことは、ヒューマニズムの延長に過ぎないのかもしれません。
私はまさに、昭和の時代の、物を考えることは悪だ、考えないことがつつましいのだと言う環境の中で育てられてきました。
こと両親はその塊のような人たちで、考えないことが「可愛い」損得だけを考えて生きることを「それでいいのだ」「しかたないじゃん」と説き、思考によって建てられた見解などには「色々な見方がある」という処で停止する、平凡な低能でした。
彼らのような人間が、まさに戦争を引き起こし、加速させ、大虐殺を引き起こす。
人類史上のあらゆる賢者たちがそう語って来た人々です。
それほどの身近から見渡す限り先にまで広がっているそのような反知性主義に抵抗し、どうにか食い止めようとここまで生きてきたのですが……あるいは彼らのような自滅への道をたどる人々こそが、より大きな視点から世界の均衡を保つ機能であるのかもしれません。
私の生涯のこの闘争のような物は、ただ無意味であるばかりか有害でさえある欺瞞なのかもしれない。
滅びるにふさわしい物が、きちんと滅びることで円環の調和が取られてゆく。
イスラムの信仰の一つの形として、禅のように行をする「スーフィズム」という物があります。
その中では、司祭の悟りを妨げる物は信仰であり、神学者の悟りを妨げる物は知識であるという教えがあるそうです。
だからこそ、すべてを相対化する行が意味をなすのだと。
相対化はすべての始まりだと書きました。
私の行者としての段階もそこに至り、ここからが次の見解への始まりなのかもしれません。
長い間に渡って人生のほとんどをつぎ込んで来た苦闘の見解には囚われず、見えてくる物をまっすぐに見てゆきたいと思います。
もしそれが出来ないのなら、行も陰陽思想も、すべての意味を失うでしょう。