先日、かつての学友から珍しく連絡がありました。
ドロップアウトしてストリートで暮らしていた私とは違い、苦労をしながら国内においての一流企業に入社しました。
マスをコントロールして、実際に今はもうこの国の大衆を扇動している誰もが知っているあの会社なので、私とはある種の対立関係にあり、そのことはお互いに良く分かっているのですが、お互いを理解して敬している友人です。
メッセージは「お前が好きだったジョーゼフ・キャンベルが今月の100分DE名著で特集されている」という物でした。
どうやらここにきて、またキャンベル神話学が見直されているようにも感じます。
大衆が煽動されて自分で考えることが出来なくなっているからだという学問界からのメッセージであるようにも思います。
そして、はざまで戦う私への彼からのメッセージでもあるのでしょう。
今回のテレビ番組でも取り上げられていて、一般に知られているのは英雄神話なのですが、キャンベル神話学では実は英雄神話の他に女神信仰、そしてアムール(アモーレ)という三つの柱が存在しています。
英雄神話は人間の成長、行についての学説で、ジークフリートやスサノオの命のみならず、ジーザスやお釈迦様もここの文脈で語られます。
女神信仰は古代の地母神信仰について語られるもので、この宇宙とはどういう物かを語っています。
そして、最後のアムールというのは、愛です。
それも、男女の愛に代表されるような個々人間での恋愛です。
エロスでもアガペーでもない、個と個の関係性としての恋愛観を語っています。
そのせいで、ちょっと面白いのがキャンベル教授の晩年の書籍では「ジョーゼフ・キャンベル結婚について語る」というようなちょっとユニークな印象の物があります。
ですが、これはもちろんタレント本ではありません。
まず英雄神話で人の成長と言う物を語り、女神信仰で世界についてを語って、そして最後に個々人同士の対等な愛情に至るのです。
以前も書きましたが、このアムールと言うのは恐ろしく難しい物となります。
これは、愛する対象のことを「YO’R MY HERO」だったり「私の天使」であったり「女神」であるというように、神話的仮託を介さずに、あるがままの個人として愛するということなのですね。
私はまだ、まだまだまったくそこにまで至れていません。
どうしても神話的メタファから逃れることができない。
というか、英雄神話そのものが神話的モチーフ、感性を養う物であり、女神信仰の段階はそれによって世界を見てゆくと言う観点です。
それを、最後の段階ではく奪する。
つまりまさに「行きて帰りし」になっていて、獲得した物を手放して一人前、という構造になっているのですね。英雄神話に内包されたファクターです。
よって、神話学の徒は最後には神話学を手放して一人前となり、本当に伴侶を愛することが出来、イニシエーションを一巡出来るという構造になっています。
であるからこそ、これは人格感性、精神的修行という支柱が貫通されている。
私たちの行っている修行もまさにその通り。
ですので、本来指導者と言うのはこの部分をしっかり認識して語ることが役割であるとも言えると思います。
神話学とは民俗学や歴史学ではなく、心理学の一分野です。
人々の心を解析し、健全化させる機能が役割です。
この大衆化、愚民化の迷える時代に、実は物凄く必要なものであると思っていますし、だからこそ私は常に社会を語りながら修行へのいざないをこうして十年もし続けています。