私たちは老荘思想に裏付けられた、タオの行をしている物です。
そのために、武術をしたり、気功をしたり瞑想をしたりする。
それは、人間が後付けで作った政治的な理由による抑圧を手放して、本来生物として持っている感覚を取り戻すためです。
周りの現代日本人に目を向ければ、仕事が出来ないとか人から褒められないとか、もっとひどいのになると他人は褒められているのに、といつも横を見て比べては自ら不幸になっている人々が非常に沢山存在します。
他者との比較が地獄への入り口だ、というのはお釈迦様の言葉だと言われています。
老釈説と言って、老子とお釈迦様の教えは非常に共通性があります。
上述した自ら望んで自分を苦しめている人達を良く見てみると、いつでもうずくまって愚痴や不平を言い続けており、その由来となる仕事や私的な人間関係に依存して生活をしており、人間の尊厳を売り飛ばして職場や不必要な人々に媚びへつらったことで生じたストレスを発散しては、またそれらの尊厳0生活を継続する努力をし続けるという生き方をしています。
意味がわからない。
辞めちゃえばいいのに。
もっと幸せになる生き方をすればいいのに、どうして自分で不幸になる生き方を選択しているのでしょう。
これは、本来の生物として生きる感性よりも社会制度の一部品として生きることを重要視しているからだと言えるのではないでしょうか。
それは、生物として実におぞましい大罪であると言えましょう。
自分で自分を不幸にする生き方と言うのは、この世に存在するどんな戒律を犯すよりも忌まわしいことだとさえ感じられます。
くだらない会社で人格を引き落としてまで、食うや食わずの賃金を得て、ストレス解消の煙草や酒、オタク活動や推し活にそれを支払ってしまい、また奴隷労働に専念するなどというのは、命と魂を粗末に扱っている以外の何者だとも思えません。
どこかでその歪んだ自分に気が付いて、自ら治してゆかないと。
練習会で見ていると、どうも世の中には腕立て伏せが出来ないという人が非常に多い。
健康な肉体を持っていながら腕立て伏せも出来ないなどと言うのは、不健康な生活をして、魂と肉体を堕落させてきたことの証拠でしょう。
実におぞましい。生物としての退廃以外の何物でもない。
人間は本来ね、それは出来るように作られている生物ですよ。
その基礎能力を退化させてまで、いったいどういう人生を送っていると言うのでしょう。
自ら選んだ腐敗による、緩慢な自殺以外の何物でもない。
この酷い病を克服するために、まずは腕立て伏せから始めましょう。
それを通して自らの命に向き合い、細胞の一つ一つが望むことを掬い取ってゆきましょう。
そうすることで、自分が成りたかったものがどんなものであるのかを思い出し、生きたかった人生に向かってゆきましょう。
我々が行っているのは、そういうための練功です。