Quantcast
Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3388

彼のその思想

$
0
0

 今回のパリオリンピックでは、ブレイキンのアフガニスタン代表選手が「FREE AFGHAN WOMEN」と書いたケープを競技中に広げて失格となったり、また柔道の選手がイスラエルの選手との試合を拒否して失格となったりと、政治的な活動が目に付きました。

 これらの活動はオリンピック憲章にある「政治的活動をしてはならない」という物に抵触するそうで彼らは失格となったのですが、あの開会式からも考えて、まさにこの危険な世界情勢下で虚構に満ちた「平和の祭典」を開くにあたっては、そのようなことを世界中の目の中で行って「反省してまーす」というのがある種の正しい選択なのではないでしょうか。

 そのような社会性の高いイベントの中で、拳銃射撃のある選手が話題になっています。

 彼の背景については極めて不穏当な物があるため、私も政治的姿勢に則って国名個人名は表記しません。

 この選手が話題になったのは、他の選手たちがグラスやヘッドフォンと言う射撃設備での当然の装具を用いず、着の身着のままのような自然体で競技に参加していたためです。

 なぜあの選手は装具を付けていないのだと話題になり、元々が軍籍の方であったということが判明しました。

 インタビューに答えて彼は、その姿が自分にはいつも訓練をしていた時のいでたちであるのでもっともパフォーマンスが発揮できるという回答をしていました。

 これは、彼がそのような環境での活動を目的に射撃訓練をしてきたという証でしょう。

 ということはどのような軍歴なのかと言うことが推察できるので、今回は国名の表記などはしなかった次第です。

 軍令と言うのは軽々しく扱うべきことではない。

 また、安易に英雄視をするべきでもない。

 その上で、その状況の感想を書きますが、つまりは彼は「武術家」だった。ということが可能であると思います。

 実戦への備えがまず本道として在り、競技は恐らく二の次であったことでしょう。

 私がいつも提唱している、身体を鍛えること一つにしても精神と繋がっていることというのがそうですし、ノーウェイト、ノーギア、ノープロテインということもそうです。

 限定されたレギュレーションで最高のスペックを発揮できるようにということではなく、人として必要な時に必要な能力を確保するために平素から身を修めている。

 と左様なことではないかと思うのです。

 近代オリンピックはそもそもがグレート・アマチュアリズムをモットーとしており、プロは参加できないと言うのが基本だったはずですが、現在では五輪選手そのもののマスプロ化が進んでいて、実質競技に特化しつつもプロと何も変わらない。

 結果、一周して生活に根付いたプロがまた現れたと言うのは、興味深い現象だと思われます。

 このことは翻って、競技者生活が終わった後の人生で社会適応が出来なくなっており、苦しい人生を送ることが多い我が国のスポーツ選手たちの在り方について見直すべききっかけかもしれません。

 何しろ彼らは結局、権威主義政権に吸収されることが最大の成功ルートだと言う悲惨な状況にあるのですから。

 この場合、「悲惨な」の主語は私たち国民と言うことにもなる訳ですし。

 日本人はもっと、自分の幸せと言うことをきちんと考えて生きるようにした方がいい。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3388

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>