フィリピン修行もあと十日ほどで終わりです。
先日、マスタルから「次は銃の使い方を教える」と言われました。
軍隊所属のグランド・マスタルのグループですし、実際町では銃を持った人もフツーに見かけるお国柄のためか、銃器類も得物の一つに数えられているそうです。
ダン・イノサント先生によるフィリピン武術の兵器のカテゴライズにも「ハンド・キャノン(小銃)」という物が入っていました。
しかし、訓練期間に限りがあるため、大変に無礼なのですがそれはお断りしてしまいました。
銃器が規制されている日本において、安全な中でそのような物をもてあそんで喜んでいる虚弱なオタクと一緒になりたくなかったのです。
ここで自分の内に疑問がわいてきます。
では一体、なぜ私はフィリピン武術をするのでしょう。
もう十五年ほど前から行っているので、ほとんど習慣のようにはなっているのですが、初期衝動は確か、やはり映画などで見ていた物を経験してみたいということだったと記憶しています。
私には別に強くなりたいという欲求もないし、そもそもこんなことで戦いたいとも思わないし、こんなんで闘って勝つことが強いとも思わない。
では一体、どうして?
どうもエゴの働きとして、何かを獲得したいと言うものがあるのではないかと思い至りました。
その何か、というのが武術であったり、武術をマスターした自分という存在であったりするのだとは思います。
ブランド好みがあるつもりはないのですが、せっかくやるのだからマスタルになりたいという意思はありました。
これはおそらく、一定のところまで学習してアウトラインを掴みたいと思っているからです。
日本武道などでは「わかることなど一生無い! 慢心するな喝!」というような考え方があるようですが、これはおそらく明治の近代化の中で生まれた独特の階級制度保持のための封建的な因習のように思います。
逆に、中国武術では明確な正解があるにも関わらず、それを公開することを避けて厳選した者にだけ真実を伝えるというしきたりが一般的です。
いずれにしても、どこまで言ったら自分があるていど分かったか、というのを理解するのは容易ではありません。
そこまでの道のりが往々にして長く厳しいので、たいていの人はかなり早い段階で分かったことにして辞めてしまったり向上を辞めてしまったりするのでしょうが、出来れば私はもう少し先まで言った見たかった。
少なくとも先生から「あなたがある程度分かったことは私が認めるよ」と言ってもらえる程度までは行ってみたかったのです。
この気持ちは、うちに来てくれてるみなさんに対する私の気持ちにも反映しています。
ほとんどの中国武術では、一般の学生はどこまで行っても本当のことなど教えてはもらえません。
師父になり、後継者候補となって初めて本当の稽古が始まります。
十年やろうが二十年やろうが、お客さん扱いの学生はお客さんのままです。
伝統継承者の世界の内側に入らないと、身内にはなれません。
その敷居があまりにも高いので、せっかく来てくれてる人達も本当のことが知りたいだろうから、許されるところまでは公開しようじゃないか、というのが私の運営方針です。
そのレベルで物を知ることが出来れば、あぁ人間というのはこんなことが出来るのだ。歴史はこのような積み上げをしてきたのだ、と言う風に人間や世界を受け取ることができます。
何も知らされないまま安易に低く物を見積もってきたなら、自分や世の中の真実を知らないまま物事を下に見誤って生きてゆくことになるでしょう。
人間の精神においては非常に良くないことだと思われます。
もちろん、何かを知りたいと囚われるのもエゴの妄執たりえます。
そのような妄執の解決法として、願いをかなえる、と言うのはタオの考え方にあるものです。