本日は英語の授業も無く、朝食後は目の前のマギンハワ・ストリートに出ております。
この通りは朝が遅めらしく、開店しているお店が少ない。そこで結局いつものカフェTHEO‘Sに参りました。
荘子を紐解きながら人々を見ていると、こちらの人々のおおらかさがやはり強く感じられます。
カフェの店員さんには男性なのか女性なのかわからない人がちょいちょい見られます。
店一番の美人がエプロンを外していたら男性だと分かったことなどもあります。
公園に寛ぐカップルの数組に一つは男性同士のカップルです。女性同士のカップルはちょっと目にしないような気がするから、そういう意味ではそこはポリティカリティー・コレクトではないのかも。
とはいえ、ここの人々が他人に対して足を引っ張りたがっていないことは感じられるように思います。
自分に関わりの無い人々のスキャンダルやお祭りを貶めてやろうと活発に活動する日本の人々とはちょっと違う気がします。
やはり私には日本の社会は息苦しい。
荘子にはよく、病気を得た人々の話が出てきます。
道を志すある学者が病気になり、その学友が見舞いに尋ねたとき、あろうことか彼は「君はそれが嫌かね?」と問答を仕掛けます。
病床の者は答えて曰く「天が私の左手を鶏に変えようと言うなら、私はその声を聴こう。右手を弓に変えようと言うならそれで矢を射よう。尻を車にして心を馬にするというなら、私はそれに乗るだろう。別の馬車を用意しなくてすむよ。この世に生まれたのは生まれるべきときに巡り合っただけだし、生を失って死ぬときでも死ぬべき道理に従うだけのことだ。自然の道理に従って生きるなら、感情の入り込む余地はない。すなわち、束縛からの解放ということだ。自分で解放することのできない人というのは、外界の事物がその心の中で固まっているのだ。外界の事物が自然の道理に勝てないのは昔からのことだというのに」
ここで言う外界とは、自然界に対して社会というようなことを言っているのでしょう。
社会の価値観に身を任せて生きたり、自分への執着に凝り固まって生きる人は自由になれない。
だとしたら、一体日本の社会でどれだけの人が本当に自由を求めているでしょうか。
社会の価値観に身を任せていれば自分に責任を持たずに生きられます。
スピリチュアルやコーチングなど、まさにそういう人のためにお金を払って管理を任せられるサービスでしょう。
誰も初めから覚悟を持って望んで生まれてきている訳ではないので、そういう人に世話を焼いてもらいたいというニーズがあるのは理解の範疇です。
逆に、自分自身への愛着にしがみついて生きる人は、一切の変化や他人の価値を認めることが出来ないでしょう。
どちらにせよ、自分が寄る辺とする物を自然の働き以外に求めている。
地に立脚して天に背筋を伸ばして立っていない。
本当に自分の心と身体でそのように生きることを自由というのでしょう。
そのような道を、一体どれだけの人が求めましょう。
私はその極少数派のためだけに、この仕事をしています。