中国武術の老子がたが、いまも昔も悩まされる素人からの質問があります。
「これは何の意味があるのですか?」です。
まぁ、さらにひどい馬鹿を相手にすると「顔面がらあきじゃないですか?」とか「金的が空きませんか?」というのがあるのですが、そのレベルになってしまうとオウムがしゃべってるくらいに流した方がいいレベルでしょう。
少なくとも私は、どんな武術でも格闘技でも、動いている間すべて一秒もあまさず顔面や金的が守られ続けている人間を見たことがない。
オウムと言うのは、大変に賢い鳥だそうです。人間の中で賢くない方の者を見立ててもさほど大差はありますまい。
鳥の頭のことは置いておきまして、最初の質問についてです。
私も恥ずかしながらしてしまいます。
もちろん、逆に人から質問されたら「いろいろな意味がある」としか答えようがないのですが、うちの師父の答えが振るっていました。
「すべての動作に用法がある訳ではない」です。
その通りです。
中国武術の動作の中には、符牒をしめす物や身分を表す物など、練功とは別のいろいろな意味がある場合があります。
また、用法の意味がある場合でも、その用法にまったく意味がないこともあります。
研究の結果見つかったんだけど、こうやっても打てるよね? いや別にこうやって打つ必要ないけれど。
みたいなことは、大乗系武術では多々あると思います。
それはおそらく、使うために別にやっている訳ではないので、じっくり取り組んで研究して居るうちにいろいろな物が出来てしまったからでしょう。
それらは必ずしも見せかけだけの華法とは限りません。複雑な理論と理論を絶秒のバランスで複合した結果の昇華である可能性もあるのです。
洗練と言うことを向上とみなすのならば、そのような物はやはり昇華とみなしてよいのでしょう。
かたやで。
小乗武術のラプンティ・アルニスをしていると、そういうことがほとんどありません。
たいていの答えが見つかるように思います。
先日も練習中「○○を攻撃されたときにどうすればいいですか?」とタピタピをしていた方から質問がありました。
どうもそこが死角がちになってしまっていたらしく、守りにくかったようなのです。
ただ、その場所は私自身からすれば、基本通りにしていればやられない場所だったので、あまり考えたことのないところでした。
ただ、実際にはフェイントやら足場の悪さやら相手の速度が思ってたより速くて出遅れたやらで、基本通りが間に合わないことがあります。
そういう時のために二段構え、三段構えの不測の事態の対処が必要なのですが、その方法を私はすでに知って居たのでやってみせました。
すると「え、そんなことしていいんですか?」というような予想外風のリアクションが返ってきました。
そこで、すでに練習でやっていたサヤウの名前を出して、それの第何番目の動作だと言いました。
すると皆さん、納得した様子。すでに気づかない間に練習積みだったのです。
すでに、不測の事態には対策が設置されていました。
小乗武術というのは、本当に平たく言って戦い方のマニュアルです。
なので、こうなったらこうする、これをし続けていくのが方針で、こっちの形でトラブルが起きたら対策A,こっちなら対策B案を行ってください。というのががっちりと隙なく設定されています。
そのために、起きるはずのないこと(ホッキョクグマと戦ったり、最新軌道兵器と戦ったり)には支度がしてありませんが、想定されていることへの対処はすべて、基礎練とサヤウの中に織り込み済みとなっています。
そのために、現代武道と違って、いろいろ習ったけど、で、これどうやって使うの? というのが無い。
すべてフローチャート式でなんも考えなくても自動的に使えるようになっています。
私もこれまでやってきたエスクリマでは、多彩な技を面白く学べたのですが、実際に遣うとなるとスパーででも自分の感性や考えて戦略や戦法を組まないとなりませんでした。
中国武術の中には「いくら技をたくさん知って居ても、法を知らなければ戦うことは出来ない」という言葉があります。
まさにその、法にのっとった用法マニュアルこそがファミリー・アートとしてのエスクリマの特徴だと改めて感じました。
どうしても技の多彩さに欠けてつまらないと対策技ばっかりやってると言う印象になってしまいがちのような小乗系エスクリマですが、もっとも少ない数の単純な技だけで沢山の局面に対応できる、というのは実際に身を守るための武術として考えると実に効果的な構造であると言えます。
ラプンティ・アルニスと言うのは、そういう土着のエスクリマです。
ただただ一人でサヤウを繰り返し、タイヤを叩き、地力を上げていきながら、時に師匠にあったらタピタピで可愛がられながら自分自身の中の剣士を育ててゆきます。
もちろん、現代社会でそんなもん育ててどうすんだということにはなります。
どうしましょうか。