アルニスのタピタピ(グルーピング)という練習は、いくつもの段階を持って教わりました。
相手が打ち込んでくるのを受け返すというスパーリング的練習なのですが、これをいきなりフリーでやらずに、段階をしっかり経るところに重要な訓練の要素があります。
相手と自分、そして二つのバストンという相関関係を段階を置いて整理して把握してゆくことで、一定の法則が見えてきて、どんな角度の攻撃でも入れる道というのがあるのが見えてくるのです。
しかし、皆さんを見ていると、どうしても初めのうちは打ち込んでくる相手に振り回されてしまうようです。
後から動いて優るということになかなか慣れるのが難しいようです。
そのための整理法の体得が極意になっています。
この辺りをして、フィリピンの人達は自分たちの武術を幾何学的だと言ったり、科学的であると言ったり、クエンタダ(予測する)と名付けたりしたのであろうと思われます。
私個人に関して言うと、実はこの、打ち込んでくる相手に入ると言うのは古武術で体得しました。
自分では意識していなかったのですが、日本刀を振り回して追いかけてくる先生にしごかれまくっているうちに出来るようになっていたのを思い出しました。
古武術ではこれを入り身の大事と言って、非常に重視していました。
技でももちろんですし、あらゆる兵法や戦略を用いてとにかく自分の間合いに詰める方法を研究して居ました。
幕末には当時流行していた竹刀剣術で撃ちあいには圧倒的な地力を持つ剣士たちが、その間合いの詰め方で抜く間も与えられず、次々と暗殺されました。
竹刀以前の古武術では、抜く前からが戦いなのです。
抜いた後でも、いかに懐に入るかが非常に重視されていました。
倭寇の時代にはそれでだいぶ中国側が苦しめられたという話が伝わっています。
技そのものではなく、戦い方にこそ重要なところがある、というのが古い武術には見られがちなことです。
合戦の場においては威力は兵器や装具によって変動が激しいので、臨機応変に戦局を把握して戦えることがとても大事だったようです。
そのような戦術の立て方に、星の教えというのがありました。
私はこれをいまでも使っていて、そのために打ち込みに対して攻防をせずにそのまますっとは入れます。
現代エスクリマだと、中間で撃ちあうのがらしさになっていますが、同じく家伝武術であるイラストリシモ先生の術を見ていると、やはり出合頭の一瞬に間合いを把握してぶつかりざまに決着をつけるという様子がよく見えます。
おそらく、古い時代のエスクリマの傾向とはそのような物だったのではないでしょうか。
我々のタピタピも、最終段階では同様の形になることが体系からうかがえます。
しかし、それを最初からやろうとしてはおそらくはたどり着くのは至難でしょう。
初歩から段階を経て、状況の観方というのを頭と体に染み込ませながら習慣化してゆくことで、瞬時に場に働いている力のベクトルが手に取れて、その頭をぴしゃりと抑えることが出来るようになるのだと思います。