Quantcast
Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3388

大倭寇の話 7・襲撃、二大王

$
0
0

 1553年、王直が平戸に蓄電したのち、浙江省浙江に、大船がたどり着いたそうです。

 その船に乗っていた武装集団は、月代を当て、異国の言葉を話していたと言います。

 官軍が到着すると彼らは、箱に入った手紙を出しました。

 そこには「我々は漂流した日本人です。食べ物を分けてくれて船を修理させてくれたらすぐにし出発します。もし攻撃を仕掛けてきたなら、お互いに命の保証はありません」と書かれていました。

 しかし、官軍は陣を不用意に詰めて船に近づいてしまいます。

 これを受けて自称日本船は攻撃を開始。とはいえ船は故障しているので離岸はできず、半数が上陸、半数は船にこもって籠城戦の構えとなります。

 官軍側は火器を持って船への攻撃を仕掛けます。

 炎上した船から「八大王」という頭目の一人が、全身燃え上がりながらも双刀を振り回して大暴れしたというから壮絶なものです。

 そして、彼らの兵器としてやはり、フィリピンのエスクリマと同じく左右の手でそれぞれ武器を持つスタイルであったことがわかります。やはり作業の必要になる船上では両手持ちの兵器は扱いに差し支えたのでしょう。

 八大王も討ち取り、官軍は制圧に成功します。生き残りたちは捕縛しますが、上陸した連中は略奪行為を繰り返しながら逃走します。

 官軍による追跡劇の果て、彼らは媽祖廟に立てこもったところを包囲されます。

 倭寇たちは廟の中にあった旗などで縄を結って帆を作り、虚を突いて飛び出したのち、官軍の船をのっとってそのまま逃走しました。

 これが王直が居なくなった倭寇海域での、倭寇と官軍との最初の遭遇であったとされています。

 この事件が意味しているのは、それまでであれば王直に任せるなり、王直とよしみを通じている郷紳に話を回すなりすれば済んでいたことが、間に入る物がなくなって抗争に直結するようになった、ということではないでしょうか。

 そして、敵対関係となれば倭寇側にとっては死活問題です。海域権を確保するためにはさらに闘争の姿勢をしめすこととなります。

 事件から一月後、逃げ去った連中が仲間をつれて再来します。

 上陸した彼らは今度は別の廟に立てこもってそこを陣地とし、官軍を攻撃して撃破します。

 意気揚々と彼らが立ち去った後の廟の壁には、五言絶句の漢詩が落書きされていました。

 これをして、彼らが中国人であることや、またかなりの学識があったため、元は官側の人間であったことが推測されています。

 決してただの蛮人による無軌道な攻撃ではない。明確な意図に基づいていることが示されています。

 離脱した倭寇たちはさらに官軍に襲撃を仕掛けて追い打ちを成し遂げます。

 この時の官軍側の記録によると、彼らの姿は地元の人間と見分けがつかなかったので後れを取ったのだ、とあるようです。

 さて、ここからが中国の記録の面白いところです。

 当時の彼らが、どのような価値観で世界を見ていたかがよくわかります。

 と、いうのもこの事件は当時の地元の記録である「倭変事録」という書物に残されているのですが、それによると、この襲撃者の頭目は「二大王」という若者であったと伝えられています。

 中国の通例で、頭目は「王」や「大王」などと呼ばれ、一番上が「老大王」、次から「二大王」と数えるので、この二大王は八大王たちの仇を討つために最高幹部がやってきたということが分かります。

 この二大王、しかしまだ二十代の若者に見えたと言います。

 青い抱をまとい、白扇を持っていたと書かれていますが、この「白扇」というのは中国の秘密結社における階級の名前ともなっており、「軍師」のことを言います。

 二大王は白扇を振って妖術を使って官軍を大いに苦しめたと言います。ほとんど封神演義のキャラクターです。

 このように、途中からどんどん演義物になってくるところが中国の歴史書らしいところです。

 明、清の中国というのは、このようにまだまだ西洋的近代と中華的神話世界が融合した世界でした。

 現代にもつながっている中国武術の伝統思想というのは、このようなところからきているものです。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3388

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>