前の書き込みにもしたように、自己流には危険があると思っています。
伝統の保持者であるのが伝人の役割なので、当然まずはそれを優先させます。
我々の拳術で言うなら、それは思想の継承が中核となっています。
天人合一、無為自然、則天去私というのがそれです。
つまり、道教で言うタオや仏道でいう法のような、自然の運行を体で学び、それに乗っ取って生きるという思想です。
それをすることによって、肉体面では忘れていた身体感覚が取り戻せて、そこから精神面では生きるということを別の視点で見直すことが出来るというのが段階的な効果です。
その中核を学ぶために、師父が伝え方で工夫をすることはありますが、教えそのものを自己流に改変することは基本ありません。
であるために、これは他の武道や格闘技とは全く異なる物です。
同じように拳足や兵器を繰り出す訓練を行いますが、それそのものが目的であるか、その先の思想のための手段であるのかは大きな違いです。
このために、我々は自己流を肯んじえないのです。
たとえ突きや蹴りが威力を増したとしても、それが自然の法則によらないものであるなら我々は意味を見出さないからです。
同じ突き一つをとっても、ある人は他の人とは違った部分の骨が強くて、そこを使った方が威力が出るとか、またある人は腕の力が強くそこを活用した方がノックアウト率が高いなどということがあるかもしれません。
それらの個人性を伸ばす行為は、大道の武術からすればまったく意味のないことです。単に個の都合でしかありません。
いうなれば、親が裕福な子供がそのまま資産や地位を譲り渡されてそのままに生きていくというような話で、普遍性がありません。
もちろん、競技をして勝つということを目的とした格闘技や武道の世界ではそれで良いと思います。
私自身もそのように生きてきました。
格闘技時代には、ある道場やジムに通っていて、そこで一番強い選手や指導員に勝てるようになれば、他の所に移籍をするということを繰り返して力を養ってきました。
伝統武術の世界ではそのようなことは意味がありません。
自分を主体にするのではなく、自然の法則を学んで自分のうちにそれを見出すことを学びます。
自己に捉われて、自己の枠の中でだけ生きることを学ぶのではありません。
むしろその外に出ることでより大きな自分を見つけることに意味を求めています。
そのために、精神の安定が強く得られます。
移ろう社会の中での相対的な価値観に自己の存在の意味を求めるのではなく、長い歴史の中で思索されてきた人の在り方を求めてゆきます。
自己流には限界があり、やはり短期的な物であると思います。
広い視野、長い目を持って命の在り方を求めることが、伝統武術の姿だと考えています。
上手い下手、速い遅い、勝つ負けるに答えを求めることは、すでにその段階で迷い道に入り込んでいるように感じます。
自然の運行と人間がどれだけつながっているかを知ってゆくためにこそ、みなさんにライフ・スタイルとしてのマーシャル・アーツを学んでいただきたく思います。