壇中は、胸の前側、つまり陰経側にある穴所で、背中(陽経側)にある神道と合わせて中丹田の表裏をなしています。
上丹田、中丹田、下丹田をして三丹と言って、これはつまり眉間、胸、下腹の三か所の中にある重心とされています。
これらが人間の正中線に三つ並んでいることで、人間の動きの軸となる大切なところとされています。
この三つにさら百会、廉泉、鳩尾、仙骨の四つの穴所を合わせた物を、インドではチャクラと呼んでいるそうです。
このチャクラを中国気功では法輪と言います。やはり気功でも重要視しています。
これらの場所を気が良く通ることで心身の健康が維持されるとみなされるのですが、この気の通りには外気と内気の二つがあると言います。
今回は外気について私の解釈でお話を進めますと、これは外界と自分の内側を繋ぐ気です。
一番わかりやすいのは呼吸と飲食です。
これらは空気を出して老廃物や二酸化炭素を吐き出したり、水(水気)や食べ物(水穀の気という)を内に取り入れて自分の一部にしてゆくという生命活動です。
チャクラはこれらと同じく、外の世界を自分の内側に取り入れる窓のような役割をします。
このことを換気と言います。チャクラと言う窓を開けて内外の空気を入れ替えていると考えてください。
人間というのは、自我と本能の二つが陰陽で対になって出来ていると考えます。
しかし、自分のことや、人間が作り出した物のことばかり考えて囚われていると、内側がそのようなエゴでいっぱいになってしまいます。
これはいわば窓が曇ったような状態で、こうなると外の物があるがままに感じ取れなくなってきます。
これを、窓を開いて外の景色を取り入れることで、全身が透明なガラスのように透き通り、景色の一部になれるようにとしてゆくのです。
私の周りには、絶対にそれはやるなよと言ったことをよせばいいのにやってしまったり、何度禁止されても同じことを繰り返して身の破滅に至った人が沢山います。
してはいけないと言われたことをわざわざ選択して能動的に行うのですから、不器用さなどからくるうっかりミスではありえません。
やろうと思ってやっているのです。
脳の発達が遅れているからそのようなことをしてしまうのかもしれませんが、東洋医学の視点からすると、内側がエゴで充たされていて、外界で起きている真実が客観的に把握できなくなっているのではないかと思えます。
つまりエゴに狂ってしまっているのです。
人はえてしてそのようなことがあります。
ある有名な音楽家の先生は、一万を越える曲を通して人々に幸せや元気を訴えてきたのですが、そうした幸せは不幸を知らなければ分からないと言います。
戦中派の先生なので、それは戦争とか戦後の貧困のことですかと訊かれると、そうじゃないと答えていました。
不幸とはそのような他人が作り出すものではなく、自分自身の失敗のことを言うのだと言います。
その失敗を正面から見つめて反省し、懺悔にのたうち、修復に奔走した日々こそが、幸せという物についてつよく考えさせてくれるのだと言うのです。
幸せというのは、自分がエゴに狂って世の中を悪くしてしまっていない状態のことだということなのでしょう。
気功を行い、心身を透き通らせる習慣があれば、圧倒的に広がっている世界を客観的に自分に取り込み、世界の一部としてのフラットな自分を保つことがしやすくなります。
その時は、エゴに狂うことも失敗に幸せを焦がれることもありません。
昨今、瞑想によって心の安静を求めることが巷間語られるようになってきましたが、気功とはすなわち技術的に系統だてられた瞑想のことです。
古代の僧の瞑想法であった少林拳とはつまり、瞑想の一部としての活動です。
正しい拳を行っていれば、心身が澄み渡ります。
これは、オッスオッスと体育会系の、近代日本武道とはまったく違う世界です。
静かに禅の心境に入り、ゆっくりと自分の身体を世界の一部として客観視します。
これを動く禅、動禅と言います。
そのようにして澄んだ生き方を送ることが、私たちの武術の最大の目的です。
そこには狂ったエゴによる拘束という不幸せは起きない。すくなくとも、起きにくいはずです。
私は外に出て風を浴びれば気持ちいいと呟く癖がついてしまいました。気功で外の新鮮な世界が自分の中に入ってくるからです。
長く眠れれば、身体が回復作業をしてくれてありがたいと毎朝思います。
おなかが減れば、良かったなと健康な自分を意識できます。
落ち着いて、幸せな心境の人生を手に入れながら、なんとなくかっこよくて面白いカンフーの動きまでできるようになってしまう。
素晴らしい物だとは思いませんか?