今年初の関内ワークショップの内容は「快快」。つまり、いかに速さを出すかという物でした。
相変わらず各派の使い手が集まるうちのワークショップ。まずは通常の速さを出すための如何に拙力を抜き、代わりに勁で動くかと言う練習をしました。
これが出来ると、軽やかに速く、なのに重くという両立が可能になります。
重い打撃を撃とうとするとどうしても動きが遅くなってしまいます。それを解消する対策を、中国武術の定番の放鬆と勁に求めている訳です。
この二つを獲得するのが今回のテーマでした。
時に「推」で相手を体ごと吹き飛ばす大きな勁を養い、次は相手を片手で飛ばす。そしてそれを軽やかに行って打に換える練習をしました。
そうやって、強大な威力を宿しながら、速さに練ってゆきました。
そうして要領を得てゆきながら、最後には推す力をそのまま打撃に変えます。
相手を推しとばすのと同じ姿勢からの突きです。
これが当たれば、体ごと飛ばす力が一か所に瞬間だけ伝わり、打になります。
大切なのは放鬆。ねじ込もうとか、強く叩いてやろうとか、体重を乗せようとか踏込を使おうとかしてはいけません。
内の勁を静かにつないだままに静かに当てます。
雑音を出して内側を騒がしてはいけません。静寂を静寂のままに澄んだ勁を用います。
これは陰陽の始まりの故事につながることです。世界がまだ混とんだったころに、澄んで軽やかな物は上にいって天になり、重いものは沈んで地になったといいます。これと同じことを体の中で起こします。
重さを足に集め、軽やかで澄んだ物を上に走らせます。
混沌の拙力は内には置いておきません。
拙とは、日本では自分のことを意味することもありますね。謙譲の意味であまり意味のない用法なのでしょうが、こじつけるなら拙力とは自分の力であるとも言っていいかもしれません。ねじ込みや押し込みの自分の力とでも言いましょうか。
私達の武術は他力を重視します。すなわち拙力の反対の物です。
ただ敏感に重力に自分をまかせ、天地に働く力を繋ぐ透明な存在に徹します。
すると、巨大な地球の質量を触れただけで伝えられるようになります。
だいぶそれを理解してきたうちの筆頭学生でも、まだ濁りがあります。不動の平馬でちょこんと突くのには苦労しているようでした。あれが出来るとかなり中国武術をやってる甲斐がある気がします。
タイミングや器用さは要りません。実直な自分の内面との対話の積み重ねが、拙力を消し、自然との調和を進めてゆきます。