9月1日問題という物が取りざたされているようです。
これは子供の自死についての問題のようなのですが、私にも非常に関心が高いものです。
私が日ごろから提唱している「ライフ・スタイルとしてのマーシャル・アーツ」というテーマの根幹をなすのが、生きづらい人々のための暮らしをどうよくできるかという物であり、生きづらさというのはつまり、死に直結しているレベルで存在しているものだと思うからです。
先天的な発達障害や、後天的な精神の疲弊を含めて、これらの生きづらさは多くの人に無関係なことではありません。
そして、まだまだ現状の社会ではそこに理解や救済の幅は非常に狭いと思うのです。
実際、この間も私がこのような意図をもって活動していることに対して、「あなたの周りにはヤバい奴らばっかり集まってる」などと侮蔑の言葉を投げかけた人が居たので、そのような言い方はしないようにと厳に抗議をしました。
そうした処、その人は関係の無い言いがかりをつけて話題をそらしてごまかしながら、適当な罵声を浴びせかけて逃げてゆきました。
私が見ていた限り、その人自身も相当に救済が必要なレベルのうまく生きてゆけなそうな事情を抱えていそうな人だったのですが、そういう人に限って、似た環境の人を見下したりすることで自分がさも上位にいるような気分を獲得しようとしてそのようなことをします。
理解し合い、助け合うべき環境にある人たちですら、そのようなことをするケースは非常に多く見られます。
これでは生きづらい社会が改善されるのはとても難しいことでしょう。
世の中にはこうして、人がささやかな幸せに向かって物事を良くしようとしていると、足を引っ張って狭い価値観の中に閉じ込めようとする人たちが驚くほどたくさんいます。
それが閉塞的な社会を作っている大きな要因であると思います。
そのようなちっぽけな囲いを押し付けることによって、惨めさの共有を強要してくる人たちの価値観にとらわれないためには、より大きな視点から世界を見ることが非常に有用だと思っています。
だからこそ、私は人類史の上での真実としての伝統を手渡すことで、暮らしと真実が共にあるという状況を伝えているのです。
世界はとても広くて、人類の歴史はとても面白い。
そして、伝統の技術は圧倒的な真実を人間の内に宿らせてくれます。
小さな自我に閉じ込められることなく、ただの「本当のこと」がどれだけすごい物なのかを常に感じて、その真実と共に生きてゆくことは、大きく堂々とした命の在り方を与えてくれます。
もし、これを読んでる人の中に、薄っぺらで窮屈な世の中で生きる価値が見つけられない人が居たら、うちに来ればいい。
そこで後付けの相対的な価値観ではない、ただの真実と生きる方法を持って行ってくれればそんなにうれしいことはありません。