ヨガのインストラクターが周りに居たり、そのヨガが私が行う気功のルーツとはほとんど遠い物になっている処あたりなどから、フィットネスの業界に関心を持ったことがありました。
整体業界などと同じく、なかなかに搾取の厳しい世界のようです。
現代社会にあまり向いていない質朴な運動好きの人々が安く買いたたかれたり、適当なメソッドを創作してそれを質朴なインストラクターの人々に売りつけたりして顧客ではなく中間層から吸い上げてなりたっている部分が目に付くように思われました。
そのような中で最近耳にしたのが、インストラクターの故障が多いということです。
そのようなブラック環境で働かされていれば無理もないことなのですが、その中でも経済的には成功をしているという有名女性インストラクターの健康管理にも問題があるようです。
ある有名インストラクターは内臓がぼろぼろになっていると医者に診断されたそうで、本人はそれをトレーニングのし過ぎが原因だと自称しているそうですが、はたして自分の身体の状態が把握できていないインストラクターのメソッドに身体を任せるのはいかがなものでしょうか。
また、テレビで見た別の有名女性インストラクターは「体がもたない」と言ってニンニク注射を受けながら仕事をしていました。
両者とも、バブル期のビジネスマンの姿そのもののようです。
結局のところ、健康法の実践者では無くてただの起業家としての思考しか持たずにお金とステータスのためだけに動いている結果がそこなのではないのだろうかと首をひねったものです。
彼女たちに支払いをしている多くの顧客はその美しさと健康そうなイメージに近づこうとペイしているはずなのですが、実態は身体はボロボロになっているというのでは、虚業も良いところなのではないでしょうか。
看板になっているはずのインストラクターの健康美が、見せかけであったり薬物に支えられているのだとしたら、それはもう運動で美容を求めないで整形手術で済ましてもいいじゃない、と思ってしまうのですが。
そういったところにやはり、私は現代病の姿を観てしまいます。
社会的成功と粉飾、美しいイメージ作りのために行われる本末転倒な行為。中身がない。
これは、地に足がついていない。土台となる哲学が存在していないからでしょう。
なぜ人生において運動と言うものを選んだのか、それは他の行為とどこか違うのか。そのようなところに強い根がある気がしません。
たまたま手近にあった経済活動の手段、という以上の物が見当たらない。
近代日本の体育に関する思想は著しく偏った物が存在します。
それは富国強兵の人材育成手段としていわゆる「体育会系」という近代軍事式の教育方針によるメソッドが体育として義務教育で行われていたからです。
気合と根性、結果主義と思考の放棄。使い勝手の良い兵隊になるための美辞麗句で粉飾された人間の操作法は、驚くほど深く日本社会に根付いています。
体育会系部活に入っていると就職に有利、という風説やブラック企業の存在などは、これが如実に反映されたものでしょう。
そのような社会のゆがみの一つの姿として、先に書いたインストラクターたちの姿があるように思います。
確かに人は、長い間で慣れてしまえば抑圧されていることにある種の安心感を得ることが出来ます。
ただその安心感にはなんの保証もありません。
身体を壊すまでに訓練に執着した彼女たちの根幹に、根性信仰にすがりつかなければいられなかった不安の存在が感じられるように思うのは気のせいでしょうか。
東洋思想では肉体の健康と美を求めることを健身と言います。
ひところは一歩先んじた西洋化の影響で寿命が短かったという香港は、現在東洋医学を見直すことで世界的な長寿への改善が行われたそうです。
健やかに身を保つためには、肉体の安定と共に、心の安静が有用なのではないでしょうか。
社会や環境に依存しきらない、心の自立です。
そのようなことをタオでは安心立命と言います。
心を安らがせ、命を立てる。
私たちは今年もライフ・スタイルのためのマーシャル・アーツを通して心地よい人生を送ってゆきたいと思います。