昨日の書き込みで、私たちの拳法は練習の根幹がひたすら立つことだと書きました。
しかし、立つばかりではありません。
座ったり寝たりもします。
ふざけて言ってるのではありません。立っている練習のことを立禅と言うのですが、同じようにそれぞれきちんと確立された練習方法です。座るのを坐功、寝てるのを臥功と言います。
これは決して、気持ちを落ち着ける、というような日本武道の精神論のようなものではありません。
静かな状態に自分を置いて、体の内側で起きている微妙な動き(微動といいます)を知覚し、それを操れるようにするための方法です。
こうして無意識に扱っていた自分と向き合ってゆきます。
ヨガを彷彿していただくとイメージがしやすいのではないでしょうか。
達磨大師によってヨガが中国に伝えられたのが、少林寺の気功の始まりだと説話にされています。
つまりは禅です。
それらを、動きを大きくしてより健身効果を強調しようとしたのが少林武術の始まりだそうです。
少林寺の周りは山も険しく獣なども多く出たため、水汲みや薪取り一つにしても、健康な肉体が無いと危険だったというのです。
仏教では日常の生活作業も作務と呼んで心身を穏やかにするための行だと位置付けています。作務の行をつつがなく行うために、武術で身体を健康にすることが必要だったのだと言います。
行は暮らしの中にあります。作務を禅の行とした少林は、健康を保つために始めた武術も動禅と呼びました。
日本武術や現代武道などでは剣禅一致などと言って技を向上するためにあとから禅を足したりしたようですが、本来は後先です。まず禅をする暮らしがあって、その禅の一つの形として武術が始まったのです。
食べるのも禅、交わるのも禅。心を静めながら暮らします。
その静けさこそが、私たちがもっとも求めるものです。
中国仏教は面白い物で、佛教とも言って儒教や道教のような中国の伝統思想がインド仏教やチベット仏教と一体に交わっています。
このうち、我々が特に重視しているのが老荘の思想なのですが、そこにおける仏教の「悟り」のようなものが天人合一、無為自然、そして安心立命です。
天人合一とは、世界のなりゆきと自分が一つになって生きること。無為自然もまた、自然に身を任せること。そして安心立命とはその結果、心が安らぎ、命が立つということです。
あれをしよう、これをせねばならんと力の限りを尽くすのではなく、ただ世界の一部となってその巡りにゆだねて生きることが出来れば、心からは迷いや苦しみがなくなり、その時に命が存分に生ききることができる、という意味です。
この、命を最大限に生きることを命が立つと表現しているのが面白いところだと思います。
やはり私たちの稽古は、立つことが大切なのです。