私は、ただ格闘技としてや、戦いで身を守る術として武術を広めようと思っている訳ではありません。
いつも書いているとおり、あくまでライフスタイルとしてのマーシャル・アーツを紹介しています。
それと言うのも、そもそもが少林拳というのは禅僧の行であり、禅とは中国の思想においては荘子の思想のライフスタイル化としたものであり、行とはその行為です。
そして、僧とはそのような生き方を選んだ人々のことです。
もちろん、禅を行うすべての人が出家したわけではなく、在家で禅を行うということは古くから行われていました。
では、どのような人々が禅を求めたのかというと、それは人生に悩みを持った人々です。
古代インドや六、七世紀の中国は、世界的な文明大国でした。とはいえ、病気や賊の蔓延、常に攻めてくる敵国との戦乱など、物理的な危険と高度文明社会におけるストレスが同時に訪れる時代でもありました。
これはもちろん、現代にも通じる問題です。
特にヨーロッパ諸国やアメリカなどは、戦乱とストレス社会が同時進行しています。
もちろん、日本も他人ごとではありません。
なので私は、いまこそ禅行としてのマーシャル・アーツが必要だと思っているのです。
ひきこもりになってしまう人々や、不登校の子供たち、社会に疑問を感じている大人などの精神的な基底となりたくて中国武術を紹介してきました。
そのために、常に人々の心の問題には意識を向けているのですが、そのうち、日本でひきこもり研究の第一人者と言われている斎藤環氏の書籍にはいろいろ学ばされています。
今回読んだ氏の本で示唆を受けたのは、以前に私も紹介したラカンの視点からの展開です。
そこで語られていることを要約します。
ラカンは、すべての人間を病質的だと言及しました。
現代社会において当然とされている「働く」と言うことも、実は現代病の一つだとみなすわけです。
その文脈で言うなら「勤勉に働くこと」は良いこととは限りません。なぜなら、年金横領をした役場の職員も、架空請求を大量に刷り込んでゆく政治家の秘書もすべて誰よりも頑張って働いている人々だからです。
そして、ここからが私が重要だと思った部分なので引用します。
“彼らには倫理感が欠けているというのなら、そもそも完全に倫理感を全うできる仕事がこの世にどれだけあるのかという話になってくる”
その通り。
この消費社会において、営業職などほとんどが詐欺まがいの誠実さとは縁遠いものであるでしょうし、建築業は手抜きがあふれ、飲食業では食べられる食べ物を粗末にしたり洗い物による汚染を伴います。また、もっともまっとうであろう農業でも生産調整などが行われています。
ここから斎藤氏が言うには、ラカン的視点で言うと、そのような病弊的な活動に専心していない、ひきこもりがもっとも正気に近いというのです。
ひきこもりとは、過剰な正気によって苦しんでいるというのがこの流れの着地点でした。
最近のニュースで、和歌山県のニートに対する施設が扱われていました。
そこの人々は、月に二、三万円ほどの金額があれば生活ができると言って、近隣の農家の手伝いをしたり期間労働をしたりして、山間で集団生活をしているのだそうです。
みな無口でお互いに話したりはあまりしないそうなのですが、本やマンガなどを買ってみなで回し読みをしたりして、静かに暮らしている、とありました。
これは、昔ながらの晴耕雨読の暮らしではないでしょうか。
現代式の老荘的な暮らしのようにも思えますし、新しい形の寺院のように受け取れる気さえします。
もちろん、すべての人がひきこもりやニートに共感するわけではないでしょうし、気持ちはわかったとしても自分が実行に移すというのはまたまるで別の問題だと思います。
しかし、ラカン的視点からの自らの生活の見直しというものを行ったとき、やはりある種の晴耕雨読精神を心に持つことは極めて正気の感情のように思います。
ライフスタイルとしてのマーシャル・アーツというのは、自分の内に静かな正気を持ち、篤実で自由に生きるために提唱した言葉です。
加速する現代社会に疑問を持ち、改めて自分自身の生き方を見直し、たしかな物の上に立って生きてみたいと思った人に、ぜひ門を叩いていただけたらと思っております。