西洋哲学に、本質と表象という考え方があります。
物事にはそれぞれ絶対的な本質、イデアのような物が本来あるのだけれども、私たちが普段接しているのはその影のような、あるいはその表現のような物だ、という考え方であるようです。
これは絶対的な真実とかがあるという思考法が土台にないとちょっとわかりにくいかもしれません。
例えば「赤」という感じ。
これ、このページを読んでくれてる人ならだれでも赤だと思われるでしょう。
でもこれ赤じゃありません。
黒です。
なぜなら私がフォントの設定を黒にしているから。
でも「赤」の意味は赤いということですよね。黒い字で書いてもそれが赤を表現していることは伝わる。このような「赤」という漢字が赤いという真実の表象です。
このように我々は、普段本物に接しなくてもそれを代替する物を活用することでおおよそ仮想的に暮らしを成り立たせている。
例えば2という数字も同じく。
これ、二つあるということを意味してますけど「2」って数字は一つですよね。だから1です。でも1つで2を表象している。
こうやって人間はそれぞれの内側の世界の中で世界を仮に作り上げているのだから、VR装置なんてなくても元々人間の感じている世界と言うのは仮想世界なわけです。
それを踏まえて最近読んでいる小説の話をします。
北方謙三先生の水滸伝シリーズです。
この中で、有名な豪傑の九紋龍史進が、新任の若い下士官を面談する場面が出てきます。
史進というのはあまり思慮深い方では無くて鉄棒を振り回して暴れまわるのが大好きなドラ息子という人物ですので、新任の配下に対してもあまり深いことは考えておらず「まぁどんな奴でも構わないから一緒にいて嫌な奴じゃなければいいな」くらいに考えています。
そんな彼は、面談する下士官当人に「自分で自分のここが良くないなと思うところを言ってみろ」というダイレクトな質問をします。
「酒癖が悪いとか、すぐに人を裏切ってしまうとか」と促すのですが、ここが史進の人となりを現す面白いところです。
彼は、人に説教をするときも「ちゃんと生きていればよい」というすごく漠然とした言い方をするのですが、その「ちゃんとする」というのは「自分を恥じないことだ。人を裏切らないとか、嘘をつかないとか」と定義づけているのです。
つまり彼の中では、酒癖が悪くて自分の人となりが定まってなかったり、他人を裏切ったりするということは非常に人間を見定める上で重要とされている訳ですね。
私もこれまでの人生で、あまりにたくさんの裏切りに出会っていまに至っています
もう、ほとんどの人間が裏切ると言ってもいい。
けれども、そういう人間と言うのは、決して「ひっひっひ、人を裏切ってやろう」と能動的に裏切っているという訳ではないと思うのです。
ほとんどの裏切り癖がある人間と言うのは、そもそも自分が人を裏切っているとも思っていないし、下手をすれば裏切るということの意味が分かっていない。さらに掘り下げると、裏切りの前提となる信頼関係というものがそもそも分かっていないことが多いと思う。
つまり、自分がどこで誰と何をしていてどのような状況になっているのかを初手から良く理解していない。
つねに場当たり的に目先の損得と自分のご機嫌だけに従って動いているだけだから、信頼も裏切りも度外視されている。
だから平気で裏切り行為をしてそれを指摘されても、それは物の捉え方一つだとか言い方次第だというような抜け道に目を向けるような反応しかしない。
なので悪びれることもなく「え? いや、そうなんですかぁ?」とか「あ、は、いや、そういう言い方するのは良くないですよ」というような態度しか返ってこないことがある。
自覚があっても「あ、えぇ? いや、はははははは」などと笑ってごまかせると思っている。
そうすることで余計に状況は悪くなっているっていうのに。
このような嘘やごまかしをして、謝罪をきちんとしないことで信頼関係が致命的に消失して、残りの人生に大きな影響を及ぼすと言うのは、昨今のニュースでよく目にすることです。
それだけ世の中では、このような人間がスタンダードになっている。
ここで冒頭の表象の話です
我々人間もまた、概念として誰かに伝わる時にはなにがしかの表象であり、決して本質ではありえません。
例えば「熱血漢」というように受け取れる人でも、イデアとしての「熱血漢」そのものではありません。
冷静なところがあったり、時にはくよくよするところもある複合的な性質を持った一個の人間であることでしょう。
「あの人はマジメだから」というようなしごくまっとうな他人への印象が、やはり「マジメ」という本質の表象を元にしたある種の表現主義的な評価となっています。
つまりは、一種の個人的なポエムです。
こう考えると、すぐに人を裏切ってしまう、というのは、その場の流れに乗るだけの気質であるということで、タオの考えかたからすると否定が出来なくなる部分です。
人間と言うのは透明な袋で、その入口と出口を自然の中の物が出入りしているだけだ、という考え方なので、その時の状況にそのまま乗っかるのは決して間違ってはいない。
もちろんそこから、ただし人間という生き物だけが、間違いを犯すこともできるし、自分が選んだ生き方をすることも出来る、ということに展開してゆきます。
信念を持ったり愛情に尽くしたりすることは、無色透明な生を自然のままに送ると言う考えからすると、拘り、ひっかかり、偏りとも取れます。
ただその偏り、過ちは人間だからこそできる。
なので、自分で選んでそうする時は、これらの前提を踏まえて思うさまおやりなさい、ということもできます。
そこに、人間の自由と言う物が浮き彫りになってくる。
はじめて個としての生き方のような物が獲得できるわけです。
つまり、すぐに人を裏切るような人間や自分が何をしているのかよくわかってない人間、人間の言葉が伝わらないような人間は決して自然の元には間違った人間ではない。
でも、私はそれらの人間が非常に苦手です。
私自身は、もっと偏りやひっかかり、拘りのような物がある人間の方が好ましく思える。
けれどもそれはあくまで私の個人的な嗜好。
俗世で多くの利己的な人々の間に苦しみ、誰にもいまここで連ねているような言語の意味が理解されることはなくても、それはどうということでもない。
けれども史進のような人間がそれを「嫌な奴」と感じているということは、とてもなんというか、救いになったようにも思うのです。
人間には中身が無くて当たり前。
でも、中身がある人間が私は好きです。
そのような人たちになにがしかの力を引き渡すべく、ささやかな活動をしているという訳です。